伝記
ベレンガリア・オブ・ナヴァールは、1160年代に生まれ、1230年12月23日に没した、イングランド王リチャード1世の王妃である。生年は、1157年から1163年とも、1165年か1170年ごろともされ、はっきりしない。ナバラ王サンチョ6世(賢王)の長女で、サンチョ7世の妹、シャンパーニュ伯ティボー3世の妃ブランカの姉にあたる。スペイン語ではベレンゲラと呼ばれる。父サンチョ6世は、1172年にリモージュを訪れたときに、リチャード1世の母アリエノール・ダキテーヌのポワティエの宮廷で歓待を受けたことがあった。リチャードが即位前、パンプローナで兄サンチョ7世が開いた馬上槍試合で、彼女を見初めて、のちに詩も贈ったという話がある。
ベレンガリアは、結婚の適齢を過ぎても、10年以上、独身で過ごした。ナバラ王国は小さく、周囲の強国に狙われていたため、彼女の手は求められたが、父は主権を失うことを恐れて、ためらった。1190年ごろ、リチャード1世は、ナバラと交渉して彼女との結婚を申し込んだ。ベレンガリアは30歳ほどで、自分の領地を持たなかった。1191年3月、第3回十字軍に参加していたリチャードは、シチリア島のメッシーナで、長年の婚約者であったフランス王フィリップ2世の姉アデルとの婚約を破棄し、ベレンガリアとの婚約を発表した。リチャードは、ナバラに隣接するアキテーヌ公を兼ねていた。すでに十字軍に身を投じようとしていたリチャードを、アリエノールは、自らナバラへ赴いて、ベレンガリアを連れて追った。一行は、シチリア王タンクレーディの妨害に遭ったが、1191年4月にシチリアに着き、リチャードと、その妹ジョーンに合流した。アリエノールはアンジュー帝国に帰り、ベレンガリアはジョーンに託された。リチャードは、聖地エルサレムでの挙式を望み、一行は十字軍とともにメッシーナを出航した。
出航から2日すると、艦隊はひどい嵐に見舞われ、ジョーンとベレンガリアの乗る船は損傷し、キプロス島へ漂着した。キプロスの太守は、ジョーンとベレンガリアを、リチャードの軍資金とともに捕らえたが、リチャードが軍を率いてキプロスに上陸し、太守のイサキオスを攻めて捕らえたため、2人は解放された。1191年5月12日、リチャードは、キプロスのリマソルでベレンガリアと結婚し、アッコへ向けて出航した。結婚にあたって、ナバラにバス=ナヴァール(現在のフランス領バスク)を割譲した。その後ベレンガリアは、夫の転戦に伴って、義妹ジョーンとともに、アッコ、シチリア、ローマなどへ移り、夫が幽閉されている間は、ポワトゥーにいた。
1199年に夫が戦傷死すると、ベレンガリアはナバラに戻らず、再婚もせず、ポワティエからル・マンに移った。義弟のジョン王は、最初は寡婦年金を送ってこず、教皇や司教たちが仲立ちをした。その後も送金は途絶えがちで、ジョンの息子ヘンリー3世の時代には、妹ブランカのもとに身を寄せて暮らした。やっと送られてきた年金をもとに、シトー会の修道院を建て、1230年に亡くなるまで信仰生活に没頭した。
遠征隊に付き従った年代記作家は、彼女を「趣味の良い貴婦人、賢くて優しく、徳があって美しい」と称賛した。しかし、リチャードとの間に子はできなかった。姑のアリエノールが、事実上の王妃としてリチャードのそばにいたため、ベレンガリアは、1194年の2度目の戴冠式を欠席し、夫の死後も、イングランドに立場を持たず、イングランドの土を踏むことはなかった。
同じ年に亡くなった人物
- Samuel ibn Tibbon (1230年)
- ボルテ (1230年代没)
- ベネデット・アンテラーミ (1230年)
- ヨハネス・ド・サクロボスコ (1230年代没)
- アイケ・フォン・レプゴー (1230年代没)
同じ地域に関係する人物
- フランソワーズ・ダランソン (1550年没)
- ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック (1857年没)
- マクシム・モーフラ (1918年没)
- ルシアン・ビアンキ (1969年没)
- エランブルジュ (メーヌ女伯) (1126年没)