伝記
ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデは、1170年頃に生まれ1230年頃に没したドイツの叙情詩人である。中高ドイツ語で宮廷恋愛歌、教訓詩、格言詩、政治詩、挽歌、宗教詩と多方面に傑作を残し、中世ドイツで質量ともに第一のミンネゼンガーとされる。ゴットフリート・フォン・シュトラースブルクは『トリスタンとイゾルデ』で、彼を歌人の群れの旗手となるべき人、頭領と讃えた。
その名は公的な文書にほとんど見えない。唯一の例外は、パッサウ司教ヴォルフガーの勘定書にある「フォーゲルヴァイデの歌手ヴァルターへ、毛皮のコート代5シリング」という記載である。ほかの情報源は、彼自身の詩と、同時代の詩人たちの作品中の言及や引用に限られる。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは彼を「ヘル(殿)」と呼んでいるが、貴族の出を意味するとは限らない。領主の家臣であったかもしれないが、作詞・作曲・演奏を生業とするドイツ最初のプロの芸人だったことは間違いないとされる。出生地は今も不明で、「フォーゲルヴァイデ」という地名は各地にあった。1974年にヘルムート・ヘルナーが低地オーストリアのヴァルトフィアテルにある農家の名をもとに同地の出身説を唱え、彼自身がオーストリアで歌を学んだと詩に述べていることもその根拠とされた。ベルント・トゥムは1977年と1981年にこの説を強く支持し、1987年にはクロムファーらも同地の生まれに違いないと主張した。一方、19世紀には南チロルのヴィップ渓谷説が広まり、スイス、ヴュルツブルク、フランクフルトなども取り沙汰された。ショルツは、生まれ故郷について確かなことは言えないと慎重である。
若いころ、ウィーンのオーストリア公レオポルト5世の宮廷で、名高いミンネゼンガーのラインマル・フォン・ハーゲナウに学んだ。後に師の死を悼み、婦人たちを一日も倦まずに称えたと歌っている。続いてフリードリヒ1世の庇護を受けた。これが最初のパトロンで、生涯で最も幸せな時期に、のびやかな恋愛詩を生んだが、1198年の公の死で終わった。跡を継いだレオポルト6世は長くは厚遇しなかったようで、幸せの門は閉ざされ、孤児のようにその前に立っていると嘆いている。
宮廷を去った後は、さまざまな王侯のために歌った。詩の中で、セーヌ川からムール川まで、ポー川からトラーヴェ川までの人々の暮らしを知っていると歌っており、広く旅をしたことがうかがえる。最も重要なのはテューリンゲン方伯ヘルマン1世の宮廷で、「私はお気前のよい方伯の家臣」と歌った。1207年にヴァルトブルク城で歌合戦に加わったという伝説は、ワーグナーの歌劇「タンホイザー」につながる。マイセン辺境伯ディートリヒを称える歌や、ケルンテン公ベルンハルト2世への不満の詩も残る。
政治詩は混乱の時代と深く関わる。1197年に皇帝ハインリヒ6世が没すると、帝国と教皇の亀裂が決定的になり、彼は帝国側に立って教皇を痛烈に攻撃した。王位を争ったシュヴァーベンのフィリップを支持する歌を歌い、1208年にフィリップが暗殺されると、ローマから戻ったオットー4世を皇帝と呼んで迎えた。1210年にオットーが破門されると教皇を非難し、教皇の口には二枚舌があると歌い、1213年の十字軍の献金箱もドイツ人の富を集める装置だと批判した。1214年のオットーの敗北後は、フリードリヒ2世のために歌った。この態度は変節というより、王位を狙う者を支える諸侯の連合が激しく変わったことの反映だとされる。
同じ年に亡くなった人物
- オタカル1世 (ボヘミア王) (1230年没)
- Samuel ibn Tibbon (1230年)
- アニェス・ド・フランス (東ローマ皇后) (1230年(推定))
- マルグリット (ブロワ女伯) (1230年没)
- アイケ・フォン・レプゴー (1230年代没)
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