伝記
少帝弘(劉弘)は、前漢の第4代皇帝である。歴代皇帝に数えないこともある。生年は伝わらず、紀元前180年に没した。諱は弘だが、もとは山といい、常山王になった際に義と改められたという。恵帝(劉盈)と後宮の美人とのあいだに生まれたとされる。ただし、少帝弘とその兄弟は、実は呂后が密かに宮中へ連れ込んだ者たちで、恵帝の実子ではないともいわれ、真相は不明である。また恵帝の皇后である張嫣の養子となったが、呂后の意向により、張皇后は弘の実母を死なせたとされる。
紀元前188年9月に父の恵帝が没し、兄の劉恭が前少帝として即位した。実際の政治は呂太后が一人で行い、権力を握り続けた。紀元前187年、弘は襄城侯に封じられた。紀元前186年、兄の常山王劉不疑が亡くなると、代わって常山王に封じられ、名を義に改めた。称号と名の文字が重なるのを避けたためと考えられている。紀元前184年以前か、そのころ、前少帝は自分が張太后の子ではなく、実母が殺されたことを知った。前少帝は、大きくなったら張太后に償わせると公言してしまう。これを聞いた呂太后は前少帝を宮中に密かに幽閉し、重病で人に会えないと発表した。やがて、病が続き政務をとれず、精神も病んだと官僚に告げて廃位を提案した。官僚はこれに従い、前少帝は廃位されて殺害された。兄に代わって弘が皇帝に即位した。実際には呂太后の傀儡であり、皇帝が替わる際に通常行われる改元も行われず、暦は前少帝の治世の始まりから続いた。
紀元前180年の秋に呂太后が病死した。それでも弘には実権がなく、権力は大部分が呂氏一族の手にあった。呂太后の遺言は、弘が呂禄の娘を皇后に立てることを求めていた。ところが陳平、周勃、灌嬰らの官僚や、朱虚侯劉章を含む皇族は呂氏に対して陰謀をめぐらせ、不意を突いて呂氏一族を誅滅した。劉章は呂禄の娘を娶らされていたが、最も積極的に挙兵したとされる。その後、功臣たちは恵帝の子は誰も本当の子ではないと主張した。子らが成長して官僚に復讐することを恐れ、別の皇帝を探すことに決めたという。意見の対立ののち、叔父の代王劉恒が選ばれた。劉恒が長安に入って文帝として即位する直前に、弘は汝陰侯夏侯嬰により宮中から追放され、少府に監禁された。東牟侯劉興居が追放だけを行ったとも伝えられる。近衛兵の一部は抵抗しようとしたが、官僚に説得されて思いとどまった。同じ年のうちに弘は、弟の常山王劉朝、淮陽王劉武らとともに毒殺されたとされる。皇后であった呂氏の娘も殺されたと考えられているが、明確な証拠はない。
弘は呂太后の傀儡とみなされ、漢の公式の皇帝の系譜からは外されている。中国のテレビドラマ『劉邦の大風歌 -漢建国記-』や『美人心計〜一人の妃と二人の皇帝〜』にも登場する。
同じ年に亡くなった人物
- Satadhanvan (紀元前180)
- ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前180年没)
- ルキウス・ウァレリウス・フラックス (紀元前195年の執政官) (紀元前180年没)
- プトレマイオス5世 (紀元前180年没)
- デメトリオス1世 (バクトリア王) (紀元前 180年(推定))