伝記
ルキウス・ウァレリウス・フラックスは、紀元前240年頃に生まれ、紀元前180年に没した共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前195年に執政官を務めた。ローマで最も著名な貴族(パトリキ)の家柄であるウァレリウス氏族の出身で、父は紀元前227年の執政官プブリウス・ウァレリウス・フラックス、祖父は紀元前261年の執政官ルキウス・ウァレリウス・フラックスである。フラックスという家名を最初に使ったのは祖父と思われ、この家は祖父以来6世代にわたって執政官を出した。父には息子が三人いたと推定され、ルキウスは次男にあたる。長男は若死にしたと推定され、三男ガイウスは紀元前183年に法務官となった。
紀元前209年には、末弟ガイウスがユピテル神官となった。リウィウスは、兄のルキウスや親戚が若いガイウスの悪行に耐えられなかったためと記している。この記録から、ルキウスはすでに家長であったと考えられる。そのころ、近所に住む若いマルクス・ポルキウス・カトと親しくなった。プルタルコスによれば二人は気性の良さや節度、仕事を愛する点で共通しており、フラックスは若いカトに政治家としての素質があると確信して自宅に招いたという。カトは後にこの関係を利用し、紀元前204年の財務官に当選した。
政務官としての最初の記録は、ハンニバルとの戦争が終わった紀元前201年の上級按察官である。同僚のルキウス・クィンクティウス・フラミニヌスと壮大な競技会を開き、スキピオ・アフリカヌスがアフリカから持ち帰った穀物を市民に分配した。翌年には法務官に当選している。紀元前200年には、法務官ルキウス・フリウス・プルプレオの副司令官としてガリア・キサルピナに出征した。カルタゴの元将軍ハミルカルがガリア兵を率いて反乱を起こし、プラケンティアを占領してクレモナを包囲していた。ローマ軍は決定的な勝利を収め、フラックスは騎兵を率いて重要な役割を果たした。リウィウスによれば、3万5千のガリア兵が戦死または捕虜となり、ハミルカルも戦死した。紀元前199年にはシキリア属州を任された。
紀元前195年、フラックスはカトとともに執政官に選ばれた。当時ローマではスキピオ・アフリカヌス派の影響が強まる一方、これに対抗する勢力も育っており、二人はその側に属していたとされる。くじ引きでフラックスはイタリア本土、カトはヒスパニアを担当した。まず両執政官は、紀元前217年に立てられた誓いを果たすため「聖なる春」の儀式を行ったが、翌年スキピオ派の最高神祇官が、儀式は正確ではなかったとしてやり直させた。この年には、女性の贅沢を禁じたオッピウス法の廃止が提案され、カトが演説で反対するなか、民会は廃止に賛成した。この件でのフラックスの立場は不明である。その後フラックスはガリア・キサルピナで戦い、破壊されたプラケンティアとクレモナを修復し、翌年も前執政官として留まった。古代の記録は二度の大勝利を伝えるが、史実かどうかは疑わしく、凱旋式も行っていない。
紀元前191年にはグラブリオの軍に加わってギリシアに渡り、アンティオコス3世とアエトリア同盟との戦争に参加した。テルモピュレではカトとともに分遣隊を指揮した。ヘラクレアの包囲後は講和の予備交渉を担当し、同盟に慈悲を乞うよう助言した。紀元前190年にローマへ戻り、プラケンティアとクレモナを再建する三人委員会を実質的に率いた。紀元前189年には監察官に立候補したが、選挙戦は激しく、カトも辞退する結果となった。紀元前180年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌス (紀元前186年の執政官) (紀元前180年没)
- プトレマイオス5世 (紀元前180年没)
- デメトリオス1世 (バクトリア王) (紀元前 180年(推定))
- ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前180年没)
- 少帝弘 (紀元前180年没)
同じ地域に関係する人物
- カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン (1887年没)
- グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前203年の執政官) (紀元前174年没)
- ロレッラ・デ・ルーカ (2014年没)
- レオ1世 (ローマ教皇) (461年没)
- プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官) (紀元前174年没)