伝記
ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスは、紀元前180年に没した共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前203年に執政官を、紀元前202年には独裁官を務めた。セルウィリウス氏族はアルバ・ロンガからローマに移住した六氏族の一つとされ、多くの執政官を出してきた。しかしゲミヌス自身は貴族ではなく平民であった。父ガイウスは紀元前218年に法務官となったがボイイ族との戦いで敗れ、15年間捕虜となった。祖父プブリウスは紀元前252年と紀元前248年に執政官を務め、「ゲミヌス(双子)」の家名を名乗った最初の人物である。弟のマルクスは紀元前202年に執政官となった。同名の息子もあり、紀元前173年に平民按察官を務めている。
紀元前212年、ハンニバルがイタリアに侵攻し第二次ポエニ戦争が続くなか、ガイウス・セルウィリウスという人物が記録に現れる。法務官の副官として、カルタゴ軍の包囲を突破し、エトルリアから食料をタレントゥムに運び込んだ人物で、現代の研究者はこれを後の執政官ゲミヌスと特定している。紀元前210年にティトゥス・オタキリウス・クラッススの死去に伴って神祇官となり、紀元前209年に平民按察官、翌年に上級按察官を務めた。どちらも同僚はクィントゥス・カエキリウス・メテッルスであった。紀元前208年末には、選挙を実施する独裁官マンリウス・トルクァトゥスから騎兵長官に指名されている。
紀元前209年、父は戦死したと思われていたが、実は捕虜として生きていると分かった。ローマでは、父の生存中に政務官を務めたゲミヌスは資格がないと宣言された。ゲミヌスは民会で、父が生きている間に按察官を務めたことを非難しないでほしいと述べ、結局この宣言は撤回された。リウィウスは、この件で責任を免れさせる提案が民会に出されたと記すが、他の古典著者はそのような選出を禁じる法に触れていない。紀元前206年に法務官となり、2個軍団と軍船30隻を預かってシキリアに派遣された。
紀元前203年には執政官に就任し、同僚は貴族の同族グナエウス・セルウィリウス・カエピオであった。くじ引きでエトルリアを担当し、ガリア人とハンニバルの弟マゴの侵攻に備えた。軍の指揮を引き継ぐとガリア・キサルピナでの作戦を続け、父を含むローマ人捕虜を奪還した。ローマへ帰還すると、翌年の選挙のために独裁官を任命し、その結果、弟マルクスが執政官に当選した。紀元前202年は前執政官としてエトルリアを担当し、年末には執政官の弟から独裁官に任命されて選挙を実施した。これは通常の独裁官としては最後の例で、後に続くのは自ら独裁官を宣言したスッラと終身独裁官カエサルだけである。
紀元前201年、カルタゴとの講和後、スキピオ・アフリカヌスの退役兵に土地を分配する委員の一人となった。紀元前194年にはルキウス・フリウス・プルプレオの公約に従ってユピテル神殿を奉献し、紀元前183年に最高神祇官となった。紀元前180年より前に、ルキウス・コルネリウス・ドラベッラと対立した。ドラベッラは父と同様に祭祀王の地位を求めながら艦隊司令官の地位を手放さないとしたため、ゲミヌスは他の人物を祭祀王に任命した。紀元前180年末に没した。死去の時点で終身職の最高神祇官であり、神聖な儀式を執り行う十人委員会の一員でもあった。これほど重要な神官職を兼ねたことから、その影響力の大きさがうかがえる。
同じ年に亡くなった人物
- ルキウス・ウァレリウス・フラックス (紀元前195年の執政官) (紀元前180年没)
- 呂雉 (紀元前180年没)
- ブリハドラタ・マウリヤ (紀元前180年代没)
- プトレマイオス5世 (紀元前180年没)
- 少帝弘 (紀元前180年没)
同じ地域に関係する人物
- イル・サッソフェッラート (1685年没)
- ゲラシウス1世 (ローマ教皇) (496年没)
- ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ (1680年没)
- ルイ・デュシェンヌ (1922年没)
- Mario Varglien (1978年没)