伝記
グナエウス・セルウィリウス・カエピオは、紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前203年に執政官を務め、紀元前174年に没した。パトリキ(貴族)のセルウィリウス氏族の出身で、この氏族はアルバ・ロンガからローマに移った六氏族の一つとされる。紀元前495年以来多くの執政官を出してきたが、セルウィリウス・カエピオ家として最初の執政官は紀元前253年の同名の人物で、カエピオの祖父か父とみられる。カエピオの息子のグナエウス・セルウィリウス・カエピオは、紀元前169年に執政官となった。
経歴が最初に記録に現れるのは紀元前213年で、この年に死去したガイウス・パピリウス・マソに代わって神祇官に就いた。神祇官は終身職である。その後、紀元前207年(紀元前206年とする記述もある)に上級按察官となり、この年にローマ祭を三度やり直したという。紀元前205年には首都担当法務官を務めた。
紀元前203年、同僚執政官ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌスとともに執政官に就任した。ゲミヌスはプレブス(平民)系のセルウィリウス氏族で、カエピオの親族でもあり、おそらく高祖父が同じだった。このころ第二次ポエニ戦争は転換点を迎えており、ハンニバルはスキピオ・アフリカヌスからカルタゴ本土を守るためイタリアを離れた。カエピオの担当はブルティウム(現在のカラブリア州)で、ここでハンニバルの同盟軍を破り、都市を一つずつ攻略して、いくつかの小都市をローマに帰順させた。クロトンの近くでハンニバルを破り、カルタゴ兵5,000人が戦死したとする史家もいるが、リウィウスはこれを捏造か記録の誤りとし、数字を大きすぎるとみている。そのような戦闘があった可能性はあるが、結果は断定できず、仮にハンニバルが勝っていたとしても、戦争の帰結は変わらなかった。ハンニバルがイタリアを去る前の最後の相手がカエピオだったとされる。
カエピオとゲミヌスは、当時アフリカで戦っていたスキピオの台頭を快く思わない人々をまとめた。カエピオ自身もカルタゴへ侵攻しようと考え、カルタゴ軍を追ってシキリアに渡り、さらにアフリカに向かうところだった。しかし元老院はスキピオを支持しており、元老院はカルタゴと交渉中でもあった。特別に任命された独裁官プブリウス・スルピキウス・ガルバ・マクシムスによって、遠征は中止させられ、カエピオはローマに呼び戻された。
戦争が終わってもカエピオはハンニバルに敵対した。紀元前195年(紀元前194年とする記述もある)、カルタゴの反ハンニバル派が、ハンニバルはセレウコス朝のアンティオコス3世と同盟していると訴えた。カエピオはマルクス・クラウディウス・マルケッルス、クィントゥス・テレンティウス・クレオとともにカルタゴへ派遣され、引き渡しを求めた。ハンニバルは使節の来訪を知るとカルタゴを脱出してシリアに向かい、使節は目的を果たせなかった。紀元前192年には、アンティオコスとの戦争に先立ち、同盟の精神を保つためギリシアへ送られた使節団の一人に選ばれた。ほかにティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスとプブリウス・ウィッリウス・タップルスがいた。紀元前174年、ローマに疾病が広がるなか、カエピオもこの年に世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- ティベリウス・センプロニウス・ロングス (紀元前194年の執政官) (紀元前174年没)
- マルクス・セルウィリウス・プレクス・ゲミヌス (紀元前 174年)
- ヘリオドロス (紀元前174)
- 冒頓単于 (紀元前174年没)
- プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官) (紀元前174年没)
同じ地域に関係する人物
- コッラド・ジニ (1965年没)
- ヨハネス14世 (ローマ教皇) (984年没)
- Carlo Giuliani (2001年没)
- リータ・レーヴィ=モンタルチーニ (2012年没)
- アレクサンデル・ベネディクト・ソビェスキ (1714年没)