伝記
スプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスは、紀元前2世紀初頭の共和政ローマの政務官である。紀元前186年に執政官を務め、バッカス祭事件の処理を指揮したことで知られる。紀元前180年に疫病で世を去った。
出身はパトリキ(貴族)のポストゥミウス氏族である。この氏族はローマで最も有力な氏族の一つで、共和政ローマ建国5年目の紀元前505年にはプブリウス・ポストゥミウス・トゥベルトゥスが氏族最初の執政官に就いており、その後も多くの執政官を出してきた。父はルキウス、祖父はアウルスで、父ルキウスは執政官に三度選ばれ、三度目の就任前にガリア人との戦いで戦死したルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスだとされる。兄は紀元前194年の財務官ルキウス・ポストゥミウス・ティンパヌスと考えられている。
経歴をたどると、紀元前191年には上級按察官を務めた可能性がある。紀元前189年には法務官となり、首都法務官と外国人担当法務官の両方を受け持った。外国人担当の職務は後にクィントゥス・ファビウス・ピクトルが引き継いだ。この年の執政官グナエウス・マンリウス・ウルソとマルクス・フルウィウス・ノビリオルはバルカン半島に出征していたため、アルビヌスが実質的にローマ市の責任者であった。また、法務官ルキウス・バエビウス・ディウェスがヒスパニア・ウルテリオルへの赴任途中にリグーリア人に襲われて死ぬと、エトルリアを管理していたプロプラエトルのプブリウス・ユニウス・ブルトゥスをヒスパニア・ウルテリオルに配置換えする元老院決議が行われ、アルビヌスはそれを伝達した。
紀元前186年、平民のクィントゥス・マルキウス・ピリップスとともに執政官に就任した。就任直後に取り組んだのがバッカス祭事件である。ローマやイタリアの他の都市でバッカス教の信者が増えており、男女の乱交にとどまらず、偽証、印章や遺言書の偽造、虚偽の告発、さらには家族の毒殺や殺人まで行われていたと伝わる。元老院はこれを重大な脅威とみなして両執政官に調査を求めた。二人はローマにとどまり、犯罪に関わった信者を処刑し、罪を犯していない者も拘束した。リウィウスは信者を数千人とするが、処分された者は7000人以上にのぼったという。元老院決議によって両執政官は、教団の神殿の破壊、財産の没収、指導者の逮捕という任務を与えられたともされる。この措置は、犯罪への対処というだけでなく、整った組織を持つ非公認の宗教結社が広く支持を集め、体制を揺るがしかねない存在になることを恐れ、伝統的なローマの価値観と元老院の権威を押し立てた試みだったとも考えられている。両執政官はリグリアでの戦争を指揮することになっていたが、この事件のため出征したかどうかは不明である。古代の記録に残るのはピリップスのリグリアでの活動だけである。年末には翌年の公職選挙を監督し、いとこのアウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクスとルキウス・ポストゥミウス・テンプサヌスが法務官に当選した。
紀元前184年、死去したグナエウス・コルネリウス・レントゥルスに代わって鳥占官に就任した。ポストゥミウス氏族で鳥占官となったのは彼が初めてであった。紀元前180年に疫病で亡くなったが、法務官と執政官に就いた時期から、研究者は没時に50歳を超えていなかったと考えている。後任の鳥占官は大スキピオの子が務めた。紀元前154年の執政官ルキウス・ポストゥミウス・アルビヌスは彼の息子と考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- デメトリオス1世 (バクトリア王) (紀元前 180年(推定))
- 少帝弘 (紀元前180年没)
- プトレマイオス5世 (紀元前180年没)
- ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌス (紀元前180年没)
- ブリハドラタ・マウリヤ (紀元前180年代没)
同じ地域に関係する人物
- ウジェーヌ・ギヨーム (1905年没)
- アルベルト・キュヒラー (1886年没)
- アドリアン・マングラール (1760年没)
- ニコラウス1世 (ローマ教皇) (867年没)
- ニーノ・ロータ (1979年没)