伝記
ハーラル4世は、ハーラル・ギッレとも呼ばれ、1130年から1136年までノルウェー王を務めた人物である。1102年ごろに、アイルランド島かヘブリディーズ諸島で生まれたが、おそらくアイルランド島だったと考えられている。ギッレという名は、おそらく中期アイルランド語の「キリストのしもべ」を意味する語に由来する。サガによれば、彼はノルウェーの商人たちとの交友を通じて、当時のノルウェーの情勢をよく知るようになった。商人のなかには、のちにオークニー伯となる人物もいた。1127年ごろ、ハーラルはノルウェーに向かい、先代の王マグヌス3世の非嫡出子だと名乗った。マグヌス3世は1103年にアイルランドを訪れており、自分はそのときに生まれた子だと主張したのである。マグヌス3世の他の子孫がアイルランドの文献に見え、少なくとも1人のアイルランド人女性がマグヌス3世のお気に入りだったこともわかっていて、この主張は信じがたいものではなかった。
こうしてハーラルは、現王シグル1世の異母弟だと主張し、神明裁判によって自らの主張を認めさせることに成功した。シグル1世は、ハーラルがシグル1世やその息子マグヌス・シグルズソンの存命中は王国の支配権を決して主張しないという条件で、この主張を認めた。ハーラルはシグル1世と友好的に暮らし、1130年にシグル1世が死去するまでこの合意を守った。訃報を聞いたとき、ハーラルはトンスベルグにいた。彼はハウガティングで会議を招き、そこで王国の半分を治める王に選ばれた。マグヌス・シグルズソンも、ハーラルと共にノルウェーを共同統治するよう強いられた。王国は分割され、シグル1世が持っていた領土の半分ずつを両者が領有して、しばらくは平和に治めた。
しかし不安定な平和は4年後に破れ、マグヌス4世が公然とハーラルとの戦争の準備を始めた。1134年8月9日、マグヌス4世はブーヒュースレーンのフィリスレイフでハーラルの軍と全面衝突して勝ち、ハーラルはデンマークへの亡命を強いられた。マグヌス4世は軍を解散し、冬を過ごすためにベルゲンへ向かった。ハーラルは新たに集めた軍勢とともにノルウェーに戻り、ほとんど抵抗を受けずにクリスマス前にベルゲンへ着いた。マグヌス4世にはまともに対抗する兵がなく、1135年1月7日にベルゲンはあっけなくハーラルの手に落ちた。マグヌス4世は捕らえられて退位させられ、目をくり抜かれて収監された。ハーラルは1136年まで王国を支配したが、12月14日に、彼と同じくマグヌス3世の非嫡出子とされた人物に殺害されたという。
ハーラルが王になった1130年ごろから、ノルウェーでは内戦の時代が始まり、1217年まで続いたとされる。原因としては、明文化されていなかった王位継承の法、当時の社会情勢、国王と教会の関係が挙げられている。内戦は2つの派閥によって引き起こされ、最初は決まった名前がなかったが、のちにそれぞれの名が定まった。ハーラルは、スウェーデン王インゲ1世の息子で相続人であったラグンヴァルド・インゲッソンの娘イングリッドと結婚し、のちにノルウェー王となる息子インゲが生まれた。サガによれば、以前にはエイステイン2世の母とも結婚していたという。妾のなかには、シグル2世の母トーラ・グットルムスドッティルがいた。1145年に10歳で死んだ息子マグヌス・ハーラルソンもいた。これら4人の息子は、全員がのちにノルウェー王となった。庶出の娘には、スウェーデン王マグヌス2世と、ビルイェル・ブローサのそれぞれの妻となった者がいる。
同じ年に亡くなった人物
- レオポルト3世 (オーストリア辺境伯) (1136年没)
- サヴァソルダ (1136年没)
- コンラート2世 (ルクセンブルク伯) (1136年没)
- ユーグ・ド・パイヤン (1136年没)
同じ地域に関係する人物
- Odd Frantzen (1977年没)
- オーレ・ブル (1880年没)
- ホーコン1世 (ノルウェー王) (961年没)
- シグル2世 (ノルウェー王) (1155年没)
- クリスチャン・ミケルセン (1925年没)