伝記
ホーコン1世は、10世紀のノルウェー王である。920年頃にハーラル美髪王とトーラ・モステルスタングの子として生まれ、在位は934年頃から961年頃とされる。ホーコン善王、あるいはイングランド王アゼルスタンのもとで養育されたことから、アゼルスタンの養い子とも呼ばれる。異母兄に、血斧王と称されるエイリークがいた。
ハーラルには王号を称した息子が複数いたが、広域的な王として重要な地位を占めたのはエイリークとホーコンであった。ハーラルは存命中にエイリークを共同統治者とし、後継ぎにするつもりだった一方、ホーコンをアゼルスタンのもとへ送って育てさせた。後世のサガは、ハーラルの使者が幼いホーコンをアゼルスタンの膝に置いたという話を伝える。ホーコンはイングランドでキリスト教徒として育てられ、スノッリ・ストゥルルソンによれば、黄金で飾った柄の剣をアゼルスタンから贈られた。石臼を切ったという伝承から「石臼噛み」と呼ばれた剣で、死ぬまで手元にあったという。ただしホーコンのイングランド滞在を記したイングランド側の史料は確認されていない。
ハーラルの死後、エイリークが王位を継いだが、約2年で人々の反発を受け、王妃グンヒルドとともに934年頃ノルウェーを追われたとされる。その後、イングランドから帰国したホーコンが王となった。12世紀後半の『ノルウェー史』は、グンヒルドの傲慢さで支持を失ったエイリークから、有力者の助言を受けたホーコンが王国を奪ったと記す。1190年頃の『アグリプ』は、「賢明な人々」に呼び戻されたホーコンが2隻の船で帰国し、当時20歳近くだったと伝える。13世紀の『ファグルスキンナ』は、ホーコンが養父アゼルスタンの助言を受けて帰国し、航海中の悪天候で船団が散り、海難死したと報告された、という話を載せる。生きて着いたホーコンは、すぐには王位を求めず、有力者との関係を築き、老人に助言を求め、若者に贈り物を与えて支持を集めたと描かれる。治世の長さは、27年とも24年ともされ、史料によって一致しない。ホーコンの王国は西ノルウェーが中心で、トロンデラーグと北部には有力者が強い影響力を保ち、ヴィーケンにはデンマーク王の宗主権下に入ることもある小王たちがいた。
ホーコンはキリスト教の普及を図る一方、デンマーク方面へも遠征した。『アグリプ』は、2隻で10隻を破ってシェラン島、スコーネ、ヴェステルイェートランドへ進出したと述べる。同書によれば、ホーコンは個人的にはキリスト教徒で、日曜を休日とし金曜に断食し、教会を建てて司祭を置いたが、トロンデラーグの住民の抵抗で教会は焼かれ、司祭は殺された。異教の祭祀への参加や馬肉を食べることも迫られたという。これに対し『ノルウェー史』は、キリスト教徒として育ちながら異教に転じた背教者として描き、その死を神罰と結びつけている。
950年代には、エイリークの息子たちと、その後援者であるデンマーク王ハーラル青歯王による攻撃を度重なって受けた。最後の戦いはストール島で行われ、ホーコンは勝利したものの致命傷を負い、その後に死去した。同時代のスカルド詩人エイヴィンド・フィンスソンの詩は、このときホーコンが金色の兜をかぶり、鎖帷子を脱いでいたと伝える。『ノルウェー史』は、エイリーク側の少年が投げた槍による傷としている。死去は961年頃とされ、治世の記録は後世の史料に多くを負っている。
同じ年に亡くなった人物
- Michael Maleinos (961年)
- アブル=カースィム・アヌージュール・ブヌル=イフシード (961年)
- アブド・アル=マリク1世 (961年没)
- アブド・アッラフマーン3世 (961年没)
- ヘレネ・レカペナ (961年)
同じ地域に関係する人物
- マグヌス4世 (スウェーデン王) (1374年没)
- イスダルの女 (1970年没)
- オーレ・ブル (1880年没)
- アルネ・ヨアヒム・ベンディクセン (2009年没)
- スヴェレ・シグルツソン (1202年没)