HISTORICAL PERSON · 1136年没

レオポルト3世 (オーストリア辺境伯)

バーベンベルク家のオーストリア辺境伯。ヴォルムス協約の締結を仲介し、ハイリゲンクロイツ修道院など複数の大修道院を創設して後に列聖された。

生涯
1136年没
死亡地
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州 / クロスターノイブルク)
出生地
オーストリア共和国(メルク)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ニーダーエスターライヒ州)

伝記

レオポルト3世は、1073年に生まれたバーベンベルク家のオーストリア辺境伯である。辺境伯レオポルト2世の子で、生地はメルクとも、ガルス・アム・カンプのバーベンベルク城ともいわれる。母はイーダ・フォン・フォルムバッハ・ラーテルンベルクである。バーベンベルク家はバイエルンからオーストリアへ来た一族で、10世紀に頭角を現していた。彼はパッサウ司教区で育ち、改革者である司教アルトマンの影響を受けた。事績はあまり多く知られていないと評される一方で、身分の貴賤や聖俗を問わず、声望は高かったという。

1095年、22歳で父の跡を継いで辺境伯となった。生涯に2度結婚しており、最初の妻はペルク家の出だった可能性があり、1105年に死んだ。翌1106年に、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の娘でハインリヒ5世の姉にあたるアグネスと結婚した。アグネスはシュヴァーベン大公フリードリヒ1世の未亡人で、レオポルトはアグネスの父ハインリヒ4世に対抗する彼女の弟ハインリヒ5世を支持していた。このザーリアー朝とのつながりによってバーベンベルク家の地位は高まり、オーストリア辺境伯領に関する重要な王権上の権利も与えられた。アグネスは前の結婚による有力な縁も持っており、息子のひとりがのちのドイツ王コンラート3世である。レオポルトは自らを「国の君主」と称し、領邦としての独立の意識を示した。アグネスとの間だけでも18人の子をもうけたとされる。

事業としては、教会のパトロンとしていくつもの大修道院を設けたことで知られる。もっとも重要なのは1108年に創設したクロスターノイブルク修道院である。この修道院の縁起には、レオポルトとアグネスがなくしたベールを、9年後に、なくしたときのままの状態で森の中に見つけ、感謝してその場所に修道院を創ったという「ベール伝承」がある。ただしこの伝承は、14世紀後半ごろから生まれた伝説とされる。彼はさらにクライン・マリアツェル修道院を設立し、のちにフライジング司教となる息子オットーのために、オーストリア最初のシトー会修道院であるハイリゲンクロイツ修道院を創設した。クロスターノイブルクやウィーン、クレムスなどの都市の発展にも力を注いだ。オーストリア最初の文学作品とされる、ハインリヒ・フォン・メルクとアヴァ・フォン・ゲットヴァイクの著作も、彼の時代のものである。

1122年のヴォルムス協約の締結では、政教両者の仲介に当たった。1125年にハインリヒ5世が没してザーリアー朝が断絶すると、次のドイツ王の候補に挙げられたが、推薦を辞退した。辞退の理由として、子が多く、跡目争いが起こるのを案じたという。1136年11月15日に死去し、狩猟の最中に何らかの理由で亡くなったとされる。自ら設立したクロスターノイブルク修道院に葬られた。1485年にインノケンティウス8世によって列聖され、1663年からはニーダーエスターライヒ州とウィーンの守護聖人として崇敬を集めている。彼の頭蓋骨は、額が見えるように刺繍をほどこした聖遺物容器に納められ、大公の帽子もかぶせられている。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物