伝記
ペーター・クリスチャン・ヘルスレブ・ケルショウ・ミケルセンは、1857年3月15日にベルゲンで生まれ、1925年6月29日に没したノルウェーの海運王・政治家である。通称はクリスチャン・ミケルセンで、1905年から1907年まで、独立国となったノルウェーの初代首相を務めた。1905年のスウェーデンとノルウェーの連合解消で中心的な役割を果たし、当時のノルウェーで最も影響力のある政治家の一人だった。ベルゲンの保守的な商人の家の5人兄弟の長男として生まれ、名は祖父の司教にちなんで付けられた。若いころから話し上手で、演劇や討論を好んだ。1875年に大学入学の試験を受け、クリスチャニア(現在のオスロ)の大学で法律を学んだ。1877年に学生協会の新聞の編集者となり、政党を嫌うことで知られた。1879年の春に卒業し、1881年にベネディクテ・ヴァレンダールと結婚した。地方の裁判所で書記を務めたのち、故郷で弁護士となったが、本来の目標は政治家になることで、そのために経済的独立を確保しようと、海運や株の投機、仲買に取り組んだ。1882年に海運会社を設立し、会社はノルウェーで最大級になった。
1884年に、保守派にも自由派にも批判的な中道の政治団体をベルゲンに作ろうとして失敗し、同年、自らは保守的と考えながら、自由党に入った。1888年にベルゲン市議会議員になり、1891年に自由党の代表として国会(ストーティング)議員になった。自分は小政党間の争いに影響されないと考え、保守党から自由党までの政党連合をつくることを主な目的の一つとし、これを連立党と呼んだ。第2次内閣で財務大臣を務め、スウェーデンとの連合に対して、より強い政策を推進した。1905年3月、首相に就任し、すぐに連合解消に向けた運動の指導者となった。
連合解消の正式な根拠になったのは、国王オスカル2世が、ノルウェーの領事法の受け入れを拒んだことだった。スウェーデン政府は数年前から、外交問題を扱う法律は連合協定の一部でなければならないと主張していた。領事業務を独立させたいというノルウェーの要望を受け入れるかわりに、90年間の連合運営の基礎であった前例、すなわち外務大臣をスウェーデン人にすることを受け入れるよう求めた。ノルウェー人はこれを、スウェーデンが優位に立つことを認めるものと考えた。1905年5月27日、国王は法案への署名を拒否し、ノルウェー人の閣僚は一斉に辞任した。6月7日、国会は、国王がノルウェーで新しい政府を樹立できなかったため、統治能力を失い、ノルウェーの国王ではなくなったと宣言した。この戦略的な動きは、連合解消にある程度の法的根拠を与えたもので、主にミケルセンの手によるものだった。連合解消を問うた国民投票では、連合を維持すべきだという票は全国でわずか184票だった。
ミケルセンは、民主的な共和制を信奉していたが、国外からもノルウェー人の大多数からも受け入れられる可能性が最も高いのは、立憲君主制だと認めていた。国民投票で君主制支持派が約79%の票を得て、デンマークのカール王子が、ノルウェー国王ホーコン7世として即位した。1906年、党派を超えた公認により選挙に勝利したが、そのために主要な自由主義者たちは急速にミケルセンから離れた。1907年、政治家同士の些細な争いに嫌気がさし、辞職した。社会政策では、1906年に、任意保険を導入する失業基金の法律が成立した。遺産の多くは、遺言により、ベルゲンのクリスチャン・ミケルセン研究所の基金とされ、同研究所は1930年に設立された。
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