伝記
徽宗は、北宋の第8代皇帝である。諱は佶といい、第6代皇帝神宗の十一男にあたる。書画の才に優れ、北宋最高の芸術家の一人と評される一方、政治では悪政を重ね、治世には地方の反乱が相次いだ。1100年、兄の哲宗が嗣子のないまま25歳で崩御したため、弟の趙佶が即位した。宰相の章惇ら重臣は趙佶の資質を疑い、簡王趙似らほかの皇子を推したが、皇太后向氏の意向で趙佶に決まったとされる。
治世の初めは向氏が垂簾聴政を行い、章惇や蔡卞ら急進的な新法派を退け、旧法派と穏健な新法派の曾布を起用して、両派から人材を登用した。福祉政策も充実させたが、これらを向氏の策とするのが通説で、徽宗自身の構想とする異説もある。徽宗も絵筆を折って政治への意欲を示し、向太后が7月に政務の一線を退くと、自ら政務に携わった。しかし新法派どうしの対立に旧法派も巻き込まれ、政情は不安定になる。そこへ急進新法派の蔡京が現れ、韓忠彦と曾布を失脚させて政権を握った。蔡京は旧法派はもとより、曾布や実弟の蔡卞ら自分を批判した新法派も激しく弾圧した。徽宗は後悔し、遼との外交政策の対立などを理由に蔡京を何度か追放したが、宮廷の主要な官職が蔡京の手下で占められていたことや、芸術の好みが近いことから、すぐに復帰させた。
徽宗は痩金体という独特の書体を創り、写実的な院体画を完成させて、「風流天子」と呼ばれた。日本にある『桃鳩図』は国宝である。道教を信じて道士の林霊素を重用し、自ら「道君皇帝」と称して『老子』や『荘子』に注釈を加えた。一方で、庭園に用いる大岩や木を南方から運河で運ばせ(花石綱)、その費用のために重税を課した。直接詔を書いて役所に命じる御筆手詔を多用し、三省や枢密院の異議を認めなかった。こうした悪政に民衆の恨みは高まり、花石綱に苦しむ民が方臘の乱を起こしたほか、『水滸伝』のもとになった宋江らも山東で活動した。太学生の鄧粛が政府批判の詩を献じたが、徽宗は諫めを聞かず、鄧粛を追放した。
北方では、遼が衰え、女真族が金を建てていた。北宋は金と盟約を結んで遼を挟み撃ちにしようとした(海上の盟)。1121年に金が遼を攻めたが、宋軍は方臘の乱の鎮圧に出ていて出兵が遅れ、翌年に燕京を攻めて失敗した。童貫が金に援軍を求めて燕京は陥落し、宋は燕雲十六州のうち六州を得たが、金に銀20万両、絹30万匹、銭100万貫、軍糧20万石を払うことになった。1125年、宋は遼の敗残軍と密かに結んで金を攻めようとしたが、この企てが金に露見し、金が出兵した。徽宗は罪己詔を出して退位し、長男の趙桓(欽宗)に譲って太上皇となり、開封を脱出した。のち欽宗らに連れ戻されて幽閉され、蔡京父子や童貫らは配流され、病死者を除いて処刑された。1126年、金軍が開封を陥落させ、徽宗は欽宗とともに金へ連行された(靖康の変)。1135年、徽宗は五国城で54歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ (グロイチュ伯) (1135年没)
- 呉乞買 (1135年没)
- ヴァルティスラフ1世 (ポメラニア公) (1135年)
- ムスタルシド (1135年没)
- オータンのギスレベルトゥス (1135年)