HISTORICAL PERSON · 1123年没

阿骨打

金の初代皇帝で、女真族完顔部の族長。1114年に遼へ挙兵し、1115年に即位して国号を大金と定めた。猛安・謀克の制を立て、北宋と海上の盟を結んで遼を攻め、女真文字も作らせた。

生涯
1123年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(黒竜江省 / 阿城区)
出典
世界地図
中華人民共和国(黒竜江省)

伝記

阿骨打は、1068年8月1日、女真の完顔部の族長劾里鉢の次男として生まれた。祖父の烏古廼も完顔部の族長で、父劾里鉢はその次男だった。母は拿懶部の首長の娘で、後に翼簡皇后と呼ばれた。完顔部は松花江の支流である按出虎水の流域に住み、遼から節度使の称号を受けながら勢力を伸ばしていた。阿骨打は父、叔父の盈歌、兄の烏雅束を補佐し、23歳のときには敦化付近の窩謀罕を討つ戦いに加わった。その後も戦争を重ね、盈歌の時代の末には内政と外交の中心を担うようになった。

1112年、遼の天祚帝が部族長たちに酒席で踊るよう命じた際、阿骨打は促されても従わなかったと伝えられる。翌1113年、兄烏雅束の死後に首長の地位を継ぎ、節度使となった。女真の君長からなる勃極烈の制度を整え、自らは都勃極烈を称した。遼の宮廷を支えるための貢納と役人の横暴に女真人の不満が高まる中、1114年に挙兵し、遼の拠点である寧江州を占領した。また旧来の慣習に基づいて猛安・謀克の制度を設け、300戸を1謀克、10謀克を1猛安として人々を軍事的に組織した。

1115年1月、阿骨打は按出虎水のほとりで皇帝となり、国号を大金、年号を収国と定め、会寧を都とした。会寧は現在のハルビン市阿城区に当たる。按出虎水の女真語名アルチュフは黄金を意味し、同河川の砂金交易が国号の由来ともいわれる。同年、黄龍府へ進んだ金軍は、天祚帝自身が率いる大軍を破った。翌1116年には東京遼陽府も陥落させ、遼東を支配下に収めた。敗勢となった遼から講和の申し入れが来たが、交渉は進まなかった。1118年には北宋が金に対し、南北から遼を挟み撃ちにすることを提案した。1119年8月には、阿骨打の命を受けた完顔希尹らが、契丹文字や漢字を参考にして女真文字を完成させた。

1120年、金は北宋と海上の盟を結んだ。宋が遼に払っていた絹30万匹と銀20万両を金へ回すこと、金軍は長城の南へ進まないこと、同盟後は金と遼の講和を進めないことが条件であった。宋は燕京を自ら攻める一方、雲州を金に攻めさせ、占領後に引き渡すよう求めた。阿骨打はこの追加要求に反駁したものの、1121年には雲州を制圧し、天祚帝を陰山方面へ敗走させた。ところが宋軍は方臘の乱への対応で攻撃が遅れ、燕京の守備軍にも連敗した。司令官童貫は当初の分担を破り、金に燕京攻略を要請した。

金軍が燕京を落とすと、部下はそのまま占領するよう勧めた。しかし阿骨打は、六州を返す約束に二言はないとして、燕京などを宋へ譲った。その一方で住民を連れ去り、銭や糧食を代償として得た。宋は歳幣を支払わず、かえって天祚帝と連絡して金の西部を揺さぶろうとした。1123年、阿骨打は天祚帝の追撃を試みたが途中で発病し、部堵濼の西の行宮で56歳で没した。同母弟の呉乞買が皇位を継ぎ、1125年には天祚帝を捕らえて遼を滅ぼした。さらに1127年、金は北宋を滅ぼして華北を領有した。1145年には子孫の熙宗から太祖の廟号を贈られた。2003年9月5日、北京市南西の九龍山で見つかっていた金朝の陵墓から、阿骨打のものとみられる石棺と遺骨、装飾品が発見されたことが公表された。

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