伝記
呉乞買(ウキマイ)は、1075年11月25日に生まれ、1135年2月9日に没した金の第2代皇帝である。漢名は完顔晟といい、年号は天会を用いた。父は劾里鉢、母はその正室の拏懶氏で、劾里鉢の四男にあたる。金を建てた太祖阿骨打の同母の弟で、長兄は烏雅束、伯父に劾者、叔父に高宗盈歌がいる。死後、後を継いだ熙宗から廟号の太宗を贈られた。
兄の阿骨打が存命のあいだはその補佐をつとめ、1123年に兄の跡を継いで即位した。2年後の1125年、金の将軍の完顔婁室らが遼を攻め、最後の皇帝である天祚帝を捕らえて、遼を滅ぼした。内モンゴルは金の支配下に入った。太宗は、寛大で人格者だった太祖と違って、勇猛で果断、実行力に富む性格だったとされる。燕雲十六州の奪還をめざす宋軍が、燕雲地方に駐留する金軍を牽制しようとしているとの情報を知って激怒し、すぐに北宋との戦いを開いた。
太宗は五番目の弟の完顔杲に命じ、金軍を2方面から北宋の首都開封へ向かわせた。この戦役は1125年とも1126年ともされ、北宋の将軍李綱が激しく抵抗した。宋軍がよくもちこたえたため、太宗は欽宗と講和を結んで金軍を引き揚げさせた。だが、宋が盟約で約束した歳貢も滞ったため、1126年8月に完顔宗望と完顔宗翰らに命じて、ふたたび開封を包囲させた。1127年、金軍は開封を陥落させ、欽宗と、その父で上皇の徽宗を捕らえた。これが靖康の変で、北宋はここに滅び、南宋の時代が始まった。徽宗の皇后鄭氏、欽宗の皇后朱氏をはじめ、皇女や女官など数千人の女性も北へ連れ去られたという。一部の女性は、金の官設の洗衣院に入れられ、高宗の母の韋氏もその中にいたと伝えられる。
1128年、太宗は捕らえた徽宗と欽宗に皮肉な爵位を与えた。徽宗を「昏徳公」、欽宗を「重昏侯」とし、2人を五国城に移して住まわせた。外モンゴルに逃れた遼の一族の耶律大石が中央アジアへ去ったのちは、金はモンゴル高原にも勢力を伸ばし、隣接する西夏や高麗にも圧力をかけて従わせた。太宗の代に金の領土は急速に広がり、国力も大きく増した。太宗は金の政治制度を整え、強めたともされる。
しかし、女真社会にはまだ部族制の原理が強く残っていて、太宗の権力は完全なものではなかった。子の阿魯ら自分の血筋に帝位を継がせようとしても、同族の長老たちの猛反対を受けた。やむなく、兄の太祖の嫡孫にあたる合剌を皇太子とした。太宗は1135年に明徳宮で死去し、和陵に葬られた。のちに第4代皇帝の海陵王が、帝位を争う者をなくす政治的な手段として太宗の子孫を殺害し、遺骸は大房山に移されて、その陵は恭陵と呼ばれるようになった。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー1世 (イングランド王) (1135年没)
- ハインリヒ (グロイチュ伯) (1135年没)
- ハーラル・ケシャ (1135年)
- ムスタルシド (1135年没)
- エルビラ・デ・カスティーリャ (シチリア王妃) (1135年没)
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