伝記
ハインリヒ・フォン・グロイチュは、1090年ごろに生まれ、1135年12月31日に没した神聖ローマ帝国の領邦君主である。グロイチュ伯ヴィプレヒト2世と、ボヘミア王ヴラチスラフ2世の娘ユーディトの次男で、兄にヴィプレヒト3世がいた。のちにラウジッツ辺境伯となる。
父と兄は、ボヘミアの王位をめぐる争いに介入して皇帝ハインリヒ5世の不興を買った。兄ヴィプレヒト3世は1109年のボヘミア遠征ののち、王位を狙うボリヴォイ2世とともに皇帝に捕らえられ、ライン河畔のハンマーシュタイン城に幽閉された。弟のハインリヒも一緒に囚われ、1110年から1111年にかけての記録に名が見える。父ヴィプレヒト2世は息子たちを自由にするため、ニーザンとバウツェンの領地、およびライスニヒやモールンゲンの土地を皇帝に差し出さなければならなかったという。
1117年に子のいなかった兄が亡くなると、ハインリヒが父の跡継ぎとなった。1123年、父は皇帝からマイセン辺境伯領とラウジッツ辺境伯領を与えられたが、ザクセン公ロタールが皇帝の命令を認めず、マイセンをコンラート・フォン・ヴェッティンに、ラウジッツをアルブレヒトに与えたため、保てなかった。1124年に父が没すると、ハインリヒはマクデブルク城伯の地位を継いだものの、コンラートとアルブレヒトに対抗できず、グロイチュ伯領の一部と、母から受け継いだバウツェン、ツヴィッカウで満足するほかなかった。伯領の残りの部分は、ハインリヒの姉妹ベルタが治めていた。1126年には、ロタールの軍に加わってボヘミアへ遠征したが、失敗に終わった。
1128年、ハインリヒは熊公アルブレヒトから取り上げられたオストマルク辺境伯に任じられた。1131年には、皇帝からラウジッツ辺境伯領を戻され、ハレのノイヴェルク修道院の代官にもなった。それでも、父の治めたマイセンを手に入れようとする望みは、コンラート1世を前に実らなかった。妻はゲルンハウゼン伯ディートマールの娘ベルタといい、1133年、二人でビュールゲルの修道院を寄進した。
ハインリヒは1135年12月31日にマインツで亡くなった。ベルタとの間に子はなく、遺領はヴェッティン家のコンラート1世が相続した。妻のベルタは1137年に没したとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー1世 (イングランド王) (1135年没)
- 徽宗 (1135年没)
- エルビラ・デ・カスティーリャ (シチリア王妃) (1135年没)
- ヴァルティスラフ1世 (ポメラニア公) (1135年)
- オータンのギスレベルトゥス (1135年)
同じ地域に関係する人物
- ムルタトゥーリ (1887年没)
- ラッベーヌー・ゲルショーム (1040年没)
- フリードリヒ・ルートヴィヒ (プファルツ=ツヴァイブリュッケン公) (1681年没)
- クリスティアン2世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公) (1717年没)
- カロリーネ・フォン・オラニエン=ナッサウ=ディーツ (1787年没)