伝記
ウラカは、1109年から1126年までカスティーリャ、レオン、ガリシアの女王だった。生まれは1081年とも1082年ともいわれ、父はレオン・カスティーリャ王アルフォンソ6世、母は2番目の妃コンスタンサである。コンスタンサの弟はクリュニー修道院長ユーグだった。両親の唯一の子であったが、幼いころの記録はほとんど残っていない。ライムンドと結婚し、結婚の時期には諸説があるものの、娘のサンチャと、のちにアルフォンソ7世となる息子アルフォンソ・ライムンデスを生んだ。当時ウラカは夫の下で従属的な立場にあった。
1093年、母が亡くなり、ムーア人の妃サイーダが父の庶子サンチョを産んだ。サンチョは庶子であったためほとんどの司教に継承を反対されたが、1107年3月までに父の主導で王に選ばれ、ウラカは王位継承から外れた。1107年にライムンドが世を去ると、ウラカはガリシアの統治を自ら担い、同じ年の終わりか翌年の初めに出した文書では、ガリシア全土の女帝を名のった。以後は地域の政治で主導的な役割を果たした。1108年、父はムラービト朝の脅威からカスティーリャを守るため、ウラカを後継者に、孫のアルフォンソを亡き婿ライムンドの後継者に定め、ウラカが再婚した場合も息子がガリシアを治める権利を認めた。同時に、アラゴン王アルフォンソ1世との再婚を発表したが、トレド大司教ベルナールは又従兄妹どうしの結婚だとして反対した。このころウラカは、カスティーリャの貴族ゴメス・ゴンサレスと恋愛関係にあった。同じ1108年の5月29日、サンチョがウクレスの戦いでムラービト朝と戦って戦死し、ほかに嫡出の男子がいなかったため、1109年に父が亡くなるとウラカが王位についた。
同じ1109年、ウラカはアルフォンソ1世と再婚し、互いの王国の主権を認め、子が生まれなければ生き残った配偶者が相手の王位を継ぐとする協定を結んだ。しかしカスティーリャとアラゴンの合同は貴族に不評で、先夫との子アルフォンソを擁立しようとする派閥も現れた。夫は粗野な軍人肌で継子を嫌い、公衆の前でウラカを殴り蹴ったとも伝えられ、ガリシアでの戦いでモンテローソにウラカの保護を求めた貴族を夫が殺したことから、ウラカも夫を軽蔑した。夫婦の不和のなかでカスティーリャは内乱に陥った。異母姉テレサとその夫エンリケが独立を図り、サアグンも自治のコミューンを立てて夫と手を結ぶなか、1111年にウラカは近親婚を理由に結婚を解消した。夫婦がともにいたことを示す最後の文書は1112年5月22日付である。
1116年にウラカは支援を失ったサアグンを制圧したが、1119年には東でアルフォンソ1世にカラオラ、タラソナ、トゥデラなどを奪われ、西ではポルトゥカーレが独立へ進んで、カスティーリャの弱体化が明らかになった。ムラービト朝もトレドを攻めたが、自治都市の抵抗で侵攻は阻まれた。苦難の多い治世ののち、1126年3月8日に44歳で亡くなり、息子がアルフォンソ7世として即位した。3度目の夫はララ伯ペドロ・ゴンサレスである。ビザンツの女帝たちを除けば、西ヨーロッパで初めて自らの権利で統治した女王とされ、向こう見ずな女王とも呼ばれた。サンティアゴ・デ・コンポステーラには、小ヤコブの頭部の聖遺物をもたらしたが、これは当初、失われたとされていた大ヤコブの頭部という触れ込みだった。
同じ年に亡くなった人物
- ユーグ (シャンパーニュ伯) (1126年没)
- ギヨーム9世 (アキテーヌ公) (1126年没)
- アフマド・ガザーリー (1126年没)
- オフリドのフェオフィラクト (1126年)
- ラグンヴァルド (1126年)
同じ地域に関係する人物
- エンリケ1世 (カスティーリャ王) (1217年没)
- メシア・ロペス・デ・アロ (1270年没)
- マルセロ・ゴンサレス・マルティン (2004年没)
- ラファエル・アルナイス・バロン (1938年没)
- ベレンゲラ・デ・バルセロナ (1149年没)