伝記
アブー・ウバイダ・アーミル・ブン・アル=ジャッラーフは、581年ごろに生まれ639年に没した、預言者ムハンマドの最初期からの教友で、正統カリフ時代のシリア総督である。いわゆる「楽園を約束された10人」の一人に数えられる。クライシュ族のフィフル家のハーリス氏の出身で、メッカの兄アブドゥッラーの家で生まれたとされる。なお生年は583年とする記述もあり、父は商人のアブドゥッラー・ブン・アル=ジャッラーフだったという。改宗前から、クライシュ族の中で勇敢さと謙虚さで知られた貴族の一人であった。
ハディースなどの伝承によれば、611年にアブー・バクルやウスマーンが改宗した翌日にイスラームに入った。困難のなかでも耐える豪胆さと私心のなさを備えていたといわれ、ムハンマドから「アミーン(信頼できる者)」と呼ばれた。メッカで初期のムスリムが受けた侮辱や圧迫を味わい、ムハンマドがメディナへ移ると自らも移住した。メディナではムハンマド・ブン・マスラマと信仰上の兄弟として組み合わされた。624年のバドルの戦いでは、クライシュ側で戦っていた父と対峙し、これを討ったと伝えられる。翌625年のウフドの戦いでは踏みとどまった少数の一人で、ムハンマドを守り、その頬に食い込んだ鎧の環を抜こうとして前歯を二本失ったという。その後も627年の塹壕の戦いやクライザ族への攻撃、628年のフダイビヤの和約の立会いと遠征に加わり、630年のメッカ征服では四つの部隊の一つを率いた。ナジュラーンのキリスト教徒の使節には教えを導く者として同行し、バーレーンへは徴税役として、またイエメンの人々の改宗と指導のためにも全権を委ねられて派遣された。
632年にムハンマドが没すると、ナジュラーンからメディナへ戻り、ウマルとともにアブー・バクルを後継者であるカリフに強く推挙した。あるハディースは、アブー・バクルがウマルとアブー・ウバイダの間に座り、二人がその手を取ったと伝える。ウマルの時代には、ヤズィードやムアーウィヤの兄弟とともにシリア方面軍司令官として派遣された。当時は軍司令官が征服地の行政も担ったため、シリアの軍事と行政の全権を握ることになった。シリアでは東ローマ軍に苦戦してウマルに救援を求め、イラク戦線にいたハーリド・イブン・アル=ワリードが転戦してきた。彼はハーリドを大変尊重して全幅の信頼を置き、その作戦が円滑に進むよう働きかけたという。
636年のヤルムークの戦いでアラブ軍は東ローマ軍を破り、ヒムス、アレッポ、アンティオキアを含む北シリア一帯を手にして、これらも彼の管轄となった。同年にダマスクスが降伏し、翌637年のエルサレム開城交渉では、降伏条件としてウマル自身との会見が求められたため、ウマルの来訪を要請した。ウマルは軍の本営があったジャービヤに来て、エルサレムの降伏も実現した。この前後にシリアの行政機構が整い、総督としての権限も確立していった。ダマスクスをシリア支配の拠点とした位置づけが、のちにウマイヤ朝の首都となる起こりだったとされる。
639年にシリア一帯で疫病が広がり、アラブ軍にも多くの病死者が出た。ウマルは彼の身を案じてメディナへ召還しようとしたが、任地を離れることを拒み、そのまま病没したと伝えられる。58歳で、子を儲けなかったため子孫はいない。後任の総督にはヤズィードが就いたが、ヤズィードもカイサリア包囲中に病没し、ウマルはその弟ムアーウィヤに職を継がせた。
同じ年に亡くなった人物
- ダゴベルト1世 (フランク王) (639年没)
- Al-Muthanna ibn Haritha (639年(推定))
- Suhayl ibn Amr (639年)
- ヤジード・イブン=アビー・スフヤーン (639年)
- Abu Jandal ibn Suhayl (639年)
同じ地域に関係する人物
- イッザト・ガッザーウィ (2003年没)
- アレクサンドロス (紀元前6)
- アリストブロス3世 (紀元前35)
- バールーフ・ゴールドシュテイン (1994年没)
- ダマスコのイオアン (749年没)