HISTORICAL PERSON · 1126年没

ギヨーム9世 (アキテーヌ公)

アキテーヌ公で最初のトルバドゥールとも呼ばれる詩人。十字軍やトゥールーズ争奪戦に参加し、広大な領土を40年にわたり統治した。

生涯
1126年没
死亡地
フランス共和国(ヴィエンヌ県 / ポワチエ)
出生地
—
出典
世界地図
フランス共和国(ヴィエンヌ県)

伝記

ギヨーム9世は、1071年にアキテーヌ公ギヨーム8世と3人目の妃イルドガルドの子として生まれた中世フランスの大貴族である。当時のポワティエ家は、ロワール川からピレネー山脈にまでおよぶ広大な領土を持ち、フランスの3分の1を占めていた。1086年に父が死ぬと15歳で後を継ぎ、治世の初期は若公と呼ばれた。1088年にアンジュー伯フルク4世の娘エルマンガルドと結婚したが、夫の女性関係のせいで彼女は情緒不安定となり、1091年に離婚した。1094年にはトゥールーズ伯ギヨーム4世の娘フィリッパと再婚している。

トゥールーズ伯領の併合は彼の野心であった。1096年にフィリッパの叔父レーモン4世が第1回十字軍に出発して領地を空けると、ギヨームはフィリッパの継承権を主張して軍を送り、1098年にトゥールーズを占領した。しかし1100年、十字軍参加者の財産を守る立場にあった教皇パスカリス2世から圧力を受け、レーモン4世の息子ベルトランに返還せざるをえなくなった。エルサレム奪還の報せを受けると十字軍に加わりたくなり、一転して準備に奔走し、1101年の十字軍でシリアへ遠征した。この十字軍は全滅に近い敗北に終わったが、彼は生き残り、アンティオキア公国に身を寄せた。翌1102年にエルサレムを訪れ、帰路ではアシュケロンの包囲戦にも加わり、10月29日にポワティエへ帰還した。帰還後は十字軍の惨めな体験を詩にして人々を楽しませた。

1112年にベルトランがトリポリ伯国で没すると、再びトゥールーズへ侵攻した。ベルトランの弟アルフォンス・ジュルダンと1114年に戦い、激しい市街戦の末に占領したが、長くは続かなかった。同じ年、教会の徴税特権を侵したとして最初の破門を言い渡されると、ポワティエ司教が破門文を読み上げる最中に司教の髪をつかみ、剣を振りかざして、赦免しなければ命はないと叫んだ。司教が落ち着いて読み終え、首を差し出すと、彼は思い直して剣を収めたが、のちに司教を捕らえて幽閉し、司教は翌1115年に獄死した。1112年ごろから彼はシャテルロー副伯夫人ダンジュルーズと関係を持ち、1115年には彼女をポワティエの居城の敷地内のモーベルジョン塔に住まわせて通ったため、フィリッパはフォントヴロー修道院にこもり、娘のオーデアルドも後を追った。同年、フィリッパの訴えで再び破門され、宣告したアングレーム司教にも食ってかかったが、髪のない司教に櫛で頭を整えてみせろと皮肉を返し、破門を無視して関係を続けた。1117年には2度目の破門が解かれて教会と和解している。1119年にトゥールーズに残した代官が民衆反乱で追放され、1120年にはレコンキスタに加わってアラゴン王アルフォンソ1世を助け、勝利に貢献した。しかし1123年に最後の拠点ナルボンヌがトゥールーズ市民軍に包囲されて落ち、野望は完全に絶たれた。

晩年は若い頃の行状を改めたとされ、修道院に入って過ごしたともいわれ、敬虔な詩が1篇残る。彼が残した11編の詩は、この1篇を除いて自由で直接的な、エロチックなおどけに満ちている。最初のトルバドゥールとも呼ばれるが、楽譜がほとんど残らないため音楽の実体は分からない。アンティオキアでアラブの詩人たちから影響を受けたという説もある。1126年2月10日、54歳で死去し、ポワティエに葬られた。為政者としては、広大な領土を約40年間治めたことは評価されている。彼の孫娘が、のちにフランス王ルイ7世、次いでイングランド王ヘンリー2世と結婚したアリエノール・ダキテーヌである。

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