伝記
ルートヴィヒ跳躍伯は、1042年に生まれたテューリンゲンの伯で、ルートヴィヒ髭伯の息子である。フランケン出身のルードヴィング家に属し、アルテンベルゲンの教区教会で洗礼を受けた。父の方針を継ぎ、城や修道院を設けてテューリンゲン盆地への勢力拡大を図った。ヴァルトブルク城の創建者とされ、伝説では1067年、狩猟中にその場所を見つけたという。山は自領外であったため、自分の土地の土を運ばせて山にまき、忠実な騎士12人と剣を地面に突き立て、その足元の土が自らのものだと誓ったとされる。
サクソン人の大反乱では当初皇帝ハインリヒ4世側につき、1080年頃に伯とされたともいわれる。同じ頃、弟ベリンガーとシェーンラインに修道院を創建し、ヴァルトブルク城もこの頃に築いたとされる。「跳躍伯」という呼び名には、ザクセン宮中伯フリードリヒ3世を殺して投獄され、3年目に処刑を恐れて城の塔からザーレ川へ飛び込んだという伝説が結びついている。この説では、ザーレ川の西、ウンシュトルート川の北にある宮中伯領の獲得を狙って事件を起こしたとされる。川では家来が舟と白馬シュヴァンを用意して待っていたという。殺人を償うためザンガーハウゼンに聖ウルリヒ教会を建て、さらに修道院を創建したとも語られる。ただし投獄そのものが確かでなく、呼び名をラテン語のサリクスの誤解に由来するとする説明もある。1085年にはヒルザウ修道院から修道士を迎え、ラインハルツブルン修道院を創建した。
1088年、フリードリヒ3世の未亡人アーデルハイト・フォン・シュターデと結婚した。妻はノルトマルク辺境伯ロタール・ウド2世の娘であり、この縁組でドイツ貴族の上層との結びつきを得た。夫婦の間にはヘルマン、ルートヴィヒ、ハインリヒ・ラスペ、ウド、クニグンデ、ツェツィーリア、アーデルハイト、コンラートが生まれた。子のルートヴィヒが後に家の地位を引き継ぐことになる。
やがて皇帝から離れ、後にマインツ大司教となるルートハルトを支持した。1092年には教皇ウルバヌス2世が、ルートヴィヒのラインハルツブルン修道院に対する保護者の地位を確認した。修道院は司教の管轄から外され、教皇庁だけに直属する施設とされた。1094年には修道院長を自由に選ぶ権利も認められた。1094年か1095年、ナウムブルク司教ヴァルラムが皇帝側へ戻るよう勧める書簡を送ったが、ルートヴィヒはハルバーシュタット司教ヘラントに返答を任せた。1100年頃にはノイエンブルク城も築いた。同年の記録では、兄弟は父がフリードリヒロダ近郊に築いた城にちなみ、シャウエンブルクの名で呼ばれていた。
叙任権闘争では、ハインリヒ4世に続いてハインリヒ5世にも反対する有力者の一人となった。息子ヘルマンは帝国側の捕虜となり、1114年に没した。ルートヴィヒ自身は1123年5月6日とも8日ともいわれる日に死去した。本人がテューリンゲン方伯を称することはなかったが、1130年、息子ルートヴィヒ1世が家として初めてその地位に就いた。ヴァルトブルク城は方伯領の中核となり、ルードヴィング家は1247年まで方伯位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 阿骨打 (1123年没)
- マルボート (1123年)
- エイステイン1世 (1123年没)
- オットー (バレンシュテット伯) (1123年没)
- エイレーネー・ドゥーカイナ (1123年)
同じ地域に関係する人物
- ハインリヒ24世 (ロイス=グライツ侯) (1927年没)
- フリードリヒ・ニーチェ (1900年没)
- アードルフ・バルテルス (1945年没)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム (1746年没)
- ヨハン・ゲオルク・フォン・ハーン (1869年没)