伝記
エイステイン1世は、1088年か1089年、後にノルウェー王となるマグヌス裸足王の長男として生まれた。母は身分の低い女性とされるが、それ以上のことは明らかでない。1103年、父がアイルランドへの遠征中に死ぬと、異母弟シグルド、オーラヴとともに王位を継いだ。シグルドは約1歳年下で、父の西方遠征に同行していたが、父の死後に帰国した。オーラヴは10歳以上年下であった。3人による王位の共有であり、王国を明確な境界によって分割したわけではなかった。
治世の初め、エイステインは主に西部ノルウェーとトロンデラーグに滞在し、シグルドはヴィーケンを拠点としたとされる。幼いオーラヴは実際の統治にはほとんど関与せず、17歳で没したため、実権を担ったのは兄二人であった。王たちが早くに行った施策には、特別な王令による諸税の廃止がある。かつてクヌート大王のもとでスヴェンとエルフギフがノルウェーを治めた時代に由来する税などをなくし、民衆の支持を得た。これはシグルドが計画していた十字軍遠征への協力を取りつけるためでもあったと考えられている。
数年にわたる準備の後、1107年か1108年、シグルドは大艦隊を率いて聖地へ出発し、1111年に帰国した。その間、エイステインはノルウェーに残り、国内の整備に当たった。自ら戦争に参加することはなかった。シグルドが主としてこの遠征で「戦う王」として知られたのに対し、エイステインには「平和の王」という呼び方が結びついた。贈り物と外交によってイェムトランドを平和裏に従わせたという物語もある。ただし、同地方がノルウェー王の支配下に入る時期はずっと後とされ、エイステインの征服を確かな出来事とみなすことはできない。
建設事業は西部沿岸とトロンデラーグに広がり、ベルゲンから北の漁業の中心地ロフォーテンにまで及んだ。とりわけベルゲンでは、王の居所を市内のより中心に近い場所へ移し、新しい王宮を築いた。教会を建て、ムンケリヴ修道院も創建した。こうした整備が進んだ時期、ベルゲンは魚の国際交易の拠点となった。エイステインは民衆から親しまれ、その事業は高く評価された。一方、シグルドも帰還後長く大きな争いなく統治しており、国内の平和をエイステイン一人の功績とすることには異論もある。
エイステインとシグルドの共同統治は、ノルウェー史で最も長いものとなった。エイステインは1123年8月29日に病没し、シグルドが単独の王となった。後の物語では、兄弟がそれぞれの能力や事績を挙げて優劣を競う場面が描かれた。また、悩みを抱える友人のために定期的に話を聞く時間を設け、憂鬱を癒やしたという話も語られる。外見は青い目と金色の巻き毛を持ち、背丈は中ほどの美しい男だったとされた。ただし、これらの逸話には文学的な型が含まれており、生涯をそのまま再現するものとは限らない。
同じ年に亡くなった人物
- エイレーネー・ドゥーカイナ (1123年)
- 阿骨打 (1123年没)
- ウスタシュ・グルニエ (1123年没)
- マルボート (1123年)
- ルートヴィヒ跳躍伯 (1123年没)
同じ地域に関係する人物
- イーヴァル・オーセン (1896年没)
- ホーコン2世 (ノルウェー王) (1162年没)