伝記
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェは、1844年10月15日にプロイセン王国領ザクセン州のライプツィヒ近郊の小村レッツェンで生まれ、1900年8月25日に没したドイツの哲学者・古典文献学者である。実存主義の代表的な思想家の一人として知られ、スイスのバーゼル大学の古典文献学教授となって以降はプロイセン国籍を離れて無国籍者だった。辞職後は在野の哲学者として生涯を過ごした。アフォリズムを用いた巧みな散文的表現には、文学的な価値も認められる。父カール・ルートヴィヒはルター派の牧師で、元教師であった。同じ日に49歳の誕生日を迎えたプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にちなんで名づけられたが、のちにニーチェはミドルネームのヴィルヘルムを捨てた。1846年に妹エリーザベトが、1848年に弟ヨーゼフが生まれた。4歳の1848年、近眼の父が足元の子犬に気づかず躓いて頭を強打し、その怪我が原因で1849年に没した。1850年には、2歳の弟も痙攣で亡くなっている。
一家は家計のため、父方の祖母とその兄を頼ってナウムブルクに移り、二人の伯母も家事に協力した。6歳になる前に市立小学校に入り、翌年には私塾でギリシア語やラテン語の基礎を学んだ。小学校時代の逸話として、帰りににわか雨が降った日、他の子供たちが走って帰るなか、ニーチェだけが頭にハンカチをのせて静かに歩いて帰り、「校則に帰りは走らず静かに帰れと書いてある」と答えたという話が、生真面目さの例として語られる。ギムナジウム時代の自伝では、幼い日が幸福であったことや、父と弟の死の悲しみを綴り、神の導きを信じていた。妹エリーザベトは6歳のころから兄の書いた文を集め、のちにニーチェ文庫を創設した。ただし、遺稿を恣意的に編集したことも指摘される。
1854年にナウムブルクのギムナジウムに入り、音楽と国語の才能を認められた。給費生として名門プフォルタ学院に転学した。1858年から1864年まで、全寮制で古代ギリシア・ローマの古典を鍛えられ、模範的な成績を残した。詩や作曲を手がけ、仲間と詩や音楽を評しあうグループを結成して、中心人物になった。1864年にボン大学の神学部と哲学部に籍を置いたが、牧師になってほしい母への配慮であった。最初の学期を終えるころには、信仰を放棄して神学をやめたと母に告げ、大喧嘩になった。この決断には、シュトラウスの『イエスの生涯』が影響したという。古典文献学者リッチュルに師事し、リッチュルがライプツィヒ大学へ移るのに従った。ライプツィヒでは、ショーペンハウアーの主著を古本屋で偶然に買い、その虜になった。1868年11月にリッチュルの紹介で、ワーグナーと面識を得た。1867年に砲兵隊に入隊したが、翌年、落馬事故の大怪我で除隊した。
1869年、24歳で、博士号も教員資格もないまま、リッチュルの強い推挙によってバーゼル大学の古典文献学教授に招かれた。1872年の処女作『悲劇の誕生』に対しては、厳密な文献学の手法を用いない点を批判され、ヴィラモーヴィッツが痛烈な批判論文を書いた。好意的に受け取ったのは、ワーグナーと友人ローデだけだった。同年の冬学期、講義から古典文献学専攻の学生がすべて姿を消した。ワーグナーを熱烈に敬愛し、邸宅を何度も訪れたが、1876年の第1回バイロイト音楽祭で、ワーグナーとの隔たりを感じ、上演の途中で抜け出した。妹には「これがバイロイトだったのだよ」と言ったと伝えられ、ついにワーグナーから離れていった。
同じ年に亡くなった人物
- マーベル・カーヒル (1900年代没)
- ジョージ・グローヴ (1900年没)
- ジャスパー・フランシス・クロプシー (1900年没)
- ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク (1900年没)
- ピート・ジュベール (1900年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨハン・ヴィルヘルム (ザクセン=ヴァイマル公) (1573年没)
- マリー・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン (1862年没)
- レオンハルト・カウピッシュ (1945年没)
- カール・フォン・ミュフリンク (1851年没)
- ソフィー・ファン・オラニエ=ナッサウ (1897年没)