HISTORICAL PERSON · 1123年没

オットー (バレンシュテット伯)

アスカニア家のバレンシュテット伯で一時ザクセン公も名乗った。スラヴ十字軍で東方へ勢力を広げ、息子アルブレヒト熊公の代でブランデンブルク辺境伯家の礎を築いた。

生涯
1123年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

オットー・フォン・バレンシュテットは、1070年ごろに生まれたアスカニア家の貴族である。一門は東ザクセンを本拠とし、その先祖は同地に定住したスエビ族の貴族ともいわれる。父はアーダルベルト2世、母はアーデルハイト・フォン・ヴァイマル=オーラミュンデであった。父は1073年にはバレンシュテットで伯の権利を持っていた。父が1080年ごろにエゲノ2世・フォン・コンラーツブルクに暗殺されると、長男オットーが家領を継いだ。弟ジークフリートは母方のヴァイマル=オーラミュンデ伯領を継ぎ、母の再婚相手の死後にはライン宮中伯となった。オットー自身の名が確認されるのは1083年からである。

1094年ごろ、ザクセン公マグヌスの娘アイリカと結婚した。夫妻の子には、後に熊公と呼ばれるアルブレヒトと、娘アーデルハイトがいた。1106年、マグヌスの死によってビルング家の男系が途絶えると、その所領の一部がオットーの家へ渡った。ベルンブルク、ハレ、ヴァイセンフェルス付近の土地が含まれたと考えられるが、範囲は確定していない。アイリカの姉ヴルフヒルトはヴェルフ家のハインリヒ黒公の妻であったため、両家の間では遺領とザクセン公位をめぐる競合が生じた。しかし、公位を得たのはどちらの婿でもなく、ロタール・フォン・ズップリンブルクだった。同じ1106年の記録で、オットーはバレンシュテット伯と呼ばれている。

1108年には、東エルベ地域を再び帝国に組み込もうとする貴族たちのスラヴ十字軍に参加した。自身の家領をエルベ川の向こうへ広げようとしたとみられ、ゲルツケ周辺の丘陵でも優勢を保っていた。1112年、皇帝ハインリヒ5世はロタールからザクセン公位を取り上げ、オットーに与えた。これによって帝国の中でも高位の諸侯に列したが、数か月後に皇帝とロタールが和解したため、公位は旧主へ戻された。オットーがザクセン公であった期間はごく短かった。

1115年2月、皇帝軍とザクセン軍の戦闘が迫る中、オットーはヴェルフェスホルツへ向かっていた。その途上、スラヴ人の軍がエルベ川を渡ったとの知らせを受け、目標を変えた。2月9日、ケーテン近くで略奪を行っていたスラヴ軍を破り、ツェルプストガウを得た。これによりアスカニア家の領地は、ハーフェル川中流域のヘフェル人の土地と隣り合うようになった。オットーは、すでにキリスト教の洗礼を受けていたヘフェル人の族長プリビスラフ=ハインリヒとの結びつきを強めた。プリビスラフにとっても、この関係は経済的な利益と政治的な安定をもたらしたとされる。

1123年、死を前にしたオットーは息子アルブレヒトとともに、聖パンクラティウス・聖アブンドゥス修道院をベネディクト会の修道院に変えた。同年2月9日に死去し、その教会へ葬られた。オットーが築いたヘフェル人との関係は次代へ受け継がれ、血縁の後継者を持たなかったプリビスラフはアルブレヒトを後継者に指名した。アルブレヒトは1157年に初代ブランデンブルク辺境伯となった。家領の継承をめぐるヴェルフ家との対立も続き、アルブレヒトはハインリヒ獅子公と生涯にわたって争うことになった。

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