伝記
ウィリアム・アデリンは、1103年8月5日、イングランド王ヘンリー1世と王妃マティルダの息子としてウィンチェスターで生まれた。父はウィリアム征服王の末子、母はスコットランド王マルカム3世とマーガレットの娘であった。母方の祖母マーガレットはエドマンド2世の孫娘で、エドワード懺悔王の姪孫に当たる。母方にはイングランドの旧王家につながる血筋があり、両親の結婚はノルマン人の新王家とアングロ・サクソン王家との和合を示すものだった。ヘンリー1世は息子が王位を継ぐことを望み、そのための準備を進めた。
1113年2月、ウィリアムはアランソンでアンジュー伯フルク5世の娘マティルドと婚約した。ノルマンディーの長年の競争相手だったアンジューとの結びつきを固めるための縁組である。また父王は、ノルマンディー公としてフランス王ルイ6世へ臣従することを求められていた。父王は自らが従うことを拒み、息子に名目上の公位を与え、1115年には代わりに臣従の誓いをさせる案を示した。同年、ウィリアムは王位継承者としてノルマンディーの男爵たちから忠誠を受け、1116年3月にはイングランドの男爵たちからも同様の誓いを受けた。
1118年、母マティルダが死去した。母は父王のノルマンディー滞在中にイングランドの摂政を務めており、その後は成長したウィリアムが代わって摂政の役割を担った。ロジャー・オブ・ソールズベリーら、王に仕える行政官の助言を受けながらの政務であった。生涯の末期には「王に指名された者」とも呼ばれた。1119年、婚約者マティルドとの結婚がリジューで行われた。戦争を挟んで父王の提案も受け入れられ、1120年半ばにはルイ6世へ臣従を誓った。このため、ノルマンディー公ギヨーム3世、または4世に数えられることがある。
1120年11月25日、ウィリアムは海峡を渡るためバルフルールでホワイトシップ号に乗った。一行は夕暮れまで飲酒していたが、王家の船の中でも速い新鋭船であったため、出発の遅れを取り戻せると考えていた。ところが夜間、酔った操舵手が湾内の岩に船を衝突させた。船は岩から離れられず、浸水を止めることもできなかった。ウィリアムたちは救命艇を下ろしたものの、王子は異母妹でペルシュ伯妃のマティルダ・フィッツロイを助けるため引き返した。小さな艇へ多くの人が乗り込んだ結果、艇は転覆して沈み、ウィリアムも17歳で命を落とした。
妻マティルドは別の船にいたため助かった。夫の死後は再婚せず、修道女となった。嫡子を残さなかった王子の死によって、父王の継承計画は崩れた。ヘンリー1世はアデライザ・オブ・ルーヴァンと再婚したが、さらに嫡子を得ることはできなかった。そこで元神聖ローマ皇后である娘マティルダを後継者に定め、アンジュー伯ジョフロワ5世と結婚させた。男爵たちには娘の権利を守るよう誓わせたが、父王が死ぬと、彼らは強制された誓いだとしてこれを破り、王の甥エティエンヌ・ド・ブロワを選んだ。こうしてイングランドは、無政府時代と呼ばれる王位継承争いに入った。生き残った妻マティルドは、1150年にフォントヴロー修道院の修道院長となった。
同じ年に亡くなった人物
- コンピエーニュのロスケリヌス (1120年代没)
- アル=バガウィー (1120年(推定))
- ウスタシュ3世 (ブローニュ伯) (1120年代没)
- エドガー・アシリング (1120年代没)
- カンタベリーのエアドメルス (1120年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルル=ウジェーヌ・ドロネー (1872年没)
- ディートリッヒ・クライス (1944年没)
- アレクサンドル・トローネル (1993年没)
- タンクレード・ド・オートヴィル (1040年代没)
- ルイ=エミール・ベルタン (1924年没)