伝記
エドガー・アシリングは、1052年頃、亡命中の父エドワードと母アガサの間にハンガリーで生まれた。祖父はイングランド王エドマンド剛勇王であり、エドガーはウェセックス王家の男系に属した。母は皇帝の親族ともハンガリー王の親族ともいわれるが、その出自は確かでない。1057年、父がエドワード懺悔王の後継候補として呼び戻されると、家族とイングランドへ渡った。しかし父は帰国直後に病死し、エドガーが王家の男系で唯一の王位継承候補となった。
1066年1月に懺悔王が没したとき、まだ10代前半であり、軍を率いる経験も有力な成人の親族による後援もなかった。賢人会議はハロルド・ゴドウィンソンを王に選んだが、そのハロルドがノルマンディー公ギヨームとのヘイスティングズの戦いで戦死すると、エドガーを新王とする動きが起こった。エドウィン伯やモーカー伯らが支える体制であったものの、ノルマン軍の進撃を止められず、支援者の降伏や離反が続いた。12月初め、残る有力者たちは未戴冠のエドガーを伴ってギヨームに服従することを決めた。ギヨームはウィリアム1世として戴冠し、エドガーも新王に臣従した。
1067年には王に伴われてノルマンディーへ赴き、その後帰国した。翌年には家族とスコットランドへ逃れた。姉妹マーガレットと結婚したマルカム3世の援助を得て、1069年にイングランド北部の反乱に加わった。一度敗れて亡命先へ戻った後、デンマーク艦隊と北部の反乱軍に合流し、ヨークでノルマン軍を破った。しかしウィリアムが北部へ進軍して反乱を抑え、1070年初めには再びスコットランドへ退いた。1072年、両国の和平に伴って追放され、フランドルへ渡った。1074年に戻るとフランス王から所領の提供を受けたが、渡航中の嵐でイングランドへ漂着した。スコットランドに逃げ帰ったのち、マルカムの説得でウィリアムと和解した。
1086年、待遇への不満から臣従の誓いを捨てて南イタリアのプーリャへ向かったが、活動は成功せず、1年足らずでイングランドへ帰った。1087年にウィリアム1世が没すると、ノルマンディーを継いだロベールを支持し、イングランド王となった弟ウィリアム2世と対立した。1091年に兄弟が和解すると、ロベールから得た領地を失い、スコットランドへ移った。同年、マルカムとウィリアム2世が対陣した際には、マルカム側の交渉を担当し、相手側のロベールと和平を取り決めた。しかし協定が履行されなかったため、ロベールとともにノルマンディーへ去った。
1093年にはウィリアム2世の使者としてスコットランドへ赴いたが、交渉は新たな戦争を防げず、マルカムは同年11月に戦死した。その後の王位争いでは、ドナルド・ベインが即位し、イングランドが支援したダンカン2世に一度は退けられたものの、ダンカンの殺害後に復位した。1097年、エドガーはイングランドの侵攻軍を率いてドナルドを追放し、マルカムとマーガレットの息子で、自分と同名の甥エドガーを王に据えた。第1回十字軍にも参加したという説があるが、遠征の時期との整合性が疑われている。エドガー自身の没年は1125年、あるいはそれ以降とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・アデリン (1120年没)
- アル=バガウィー (1120年(推定))
- ジェラルド (1120年没)
- ヴェルフ2世 (バイエルン公) (1120年没)
- エウティミオス・ジガベノス (1120年没)
同じ地域に関係する人物
- Stanley Middleton (2009年没)
- アイヴァー・グラッタン=ギネス (2014年没)
- ルドルフ1世 (ライン宮中伯) (1319年没)
- エリナー・オブ・カスティル (1290年没)
- テネシー・セレステ・クラフリン (1923年没)