HISTORICAL PERSON · 1120年代没

ウスタシュ3世 (ブローニュ伯)

ブローニュ伯。弟ゴドフロワ・ド・ブイヨンらと第1回十字軍に参加し数々の戦いで活躍したが、エルサレム王位を辞退して帰国し、晩年は修道士として過ごした。

生涯
1120年代没
死亡地
フランス共和国(パ=ド=カレー県 / Rumilly)
出生地
フランス王国(ロレーヌ公国)
出典
世界地図
フランス共和国(パ=ド=カレー県)

伝記

ウスタシュ3世は、1050年頃、ブローニュ伯ウスタシュ2世とイドの息子として生まれた。1087年に父の後を継ぎ、ブローニュ伯となった。翌1088年には、イングランド王ウィリアム2世に対する反乱に加わり、その兄であるノルマンディー公ロベール2世を支持した。ロベールの渡海を待ちながら仲間とロチェスター城に籠もったが、援軍は来ず、王の軍勢に包囲された。城内の食糧が乏しくなって情勢が悪化すると、反乱側は降伏の条件を求めた。ウィリアム2世は多くの参加者を許し、ウスタシュもノルマンディーへ戻ることができた。1091年、ロベールがウィリアムをイングランド王として認める講和を結んだ際には、ウスタシュはロベールのもとにいた。

1096年、教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じ、ゴドフロワ・ド・ブイヨン、ボードゥアンの兄弟とともに第1回十字軍へ参加した。東方への道をゴドフロワの軍と進んだのか、ロベールの軍に加わっていたのかは明らかでないが、遠征中はゴドフロワの活動を助けた。1097年5月から6月にニカイア攻囲戦に加わり、7月1日のドリュラエウムの戦いでは、敵の攻撃で苦戦していたターラント公ボエモンの部隊を救援した。続くアンティオキア攻囲戦では敵の待ち伏せを退け、1098年の市の攻略では指揮官の一人を務めた。同年12月初めには、トゥールーズ伯レーモン4世によるマアッラト・アン=ヌウマーンへの攻撃にも加わった。

1099年1月4日、ルジュで開かれた軍議に参加し、アンティオキアの支配をめぐって争っていたボエモンとレーモンの仲介に当たった。同年7月にはナーブルスを攻撃し、エルサレムの攻囲にも参加した。ゴドフロワとともに攻城塔から城壁に迫り、早くに市内へ突入した一隊に属していた。守備側との戦闘に続き、市の占領後に起きた住民の虐殺にも関与した。その後、成立したエルサレム王国の南部で起きたアスカロンの戦いでは十字軍の一部隊を指揮し、ファーティマ朝軍と戦った。

ゴドフロワとボードゥアンは聖地に領土を得てとどまったが、ウスタシュは自らの領地を治めるためブローニュへ帰った。帰還後、ブローニュで遠征を記念する銀貨が鋳造された。表面にはエルサレムの城壁の上に立つライオンが刻まれていた。家族については、スコットランド王マルカム3世とマーガレットの娘メアリーと結婚し、1103年から1105年頃に娘マティルドを得た。のちにはテンプル騎士団の後援者の一人にもなった。

1118年、エルサレム王となっていた弟ボードゥアン1世が没すると、ウスタシュに王位を継ぐよう要請が寄せられた。初めは関心を示さなかったものの、説得を受けて承諾し、再び東方へ旅立った。しかしイタリアのプーリャ地方まで来たところで、縁戚のボードゥアン・デュ・ブールがすでに王位に就いたと知った。そこで引き返し、ブローニュへ戻った。リュミリーにクリュニー派の修道院を創建し、自らも修道士となってその地で余生を送った。1125年頃に没し、ブローニュ伯領は娘マティルドに継承された。マティルドはイングランド王スティーブンの妻でもあり、伯領はこの夫妻に引き継がれた。

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