伝記
コンピエーニュのロスケリヌスは、1050年頃にコンピエーニュで生まれたフランスの哲学者、神学者である。ソワソンとランで教育を受け、シャルトル大聖堂に所属した後、故郷の聖堂参事会員となった。1087年にはコンピエーニュで教えており、ランフランクス、カンタベリーのアンセルムス、シャルトルのイヴォらと交流した。その生涯の細部は明らかでないが、普遍をめぐる議論と、それを三位一体の問題に結びつけた主張によって論争の当事者となった。
ロスケリヌスはしばしば唯名論の創始者と呼ばれる。ただし、最初にこの教説を公にした人物かどうかは確かでない。その立場では、類や種を独立した「もの」としては認めず、普遍を声として捉えた。たとえば「人間」という語は、発音された音であり、音節や母音、子音へと分けられる。この立場は「ものの中の普遍」でも「知性の中の普遍」でもなく、「声の中の普遍」に相当するとされる。音声を舌による空気の振動と捉えるボエティウスの定義にも従っていた。個々のものを超えて実在する普遍的な実体を認める考えには反対したが、類や種の抽象的な概念が存在しうるかどうかを否定したわけではなかった。このため、その唯名論を後世の同じ名の思想とそのまま重ねることはできない。同輩のリールのラインベルトゥスは、この教説を支持した一人であった。色はそれを備えた馬から離れて存在するものではなく、知恵も知恵ある魂の外にあるものではないと考え、全体と部分の捉え方でもアンセルムスやアベラルドゥスから批判を受けた。
三位一体については、父、子、聖霊の三位格を、三体の天使のようにそれぞれ独立した実体と捉えた。言葉の慣習さえ許すならば、三つの神と呼ぶこともできるとしたのである。その一方、三位格が一つの意志と力を持つことは認めた。もし三位格を厳密に一つの実体とするなら、子だけでなく父と聖霊もともに受肉したことになる、というのがその論拠であった。自らの説を誠実に提唱し、当初はランフランクスとアンセルムスの権威によっても支えられると考えていた。しかし、実体を個別のものとして扱う立場を神学に及ぼしたこの議論は、三神論として非難されることになった。
1092年から1093年にかけてソワソンで開かれた教会会議で教説を責められ、自身に帰せられた主張を撤回した。この会議はランス大司教によって召集されたものであった。破門や石打ちによる死の恐れから離れると、再び自説を唱えた。イングランドへ逃れたが、アンセルムスの攻撃を受けて支持を得られず、今度はローマへ向かった。そこでは好意的に迎えられ、カトリック教会との和解も成立した。その後フランスへ帰り、トゥールとロシュで教えた。ロシュではペトルス・アベラルドゥスが弟子となった。最後にはブザンソンの聖堂参事会員となった。
1121年にも活動が知られ、この頃には、かつての弟子アベラルドゥスの三位一体論に反論していた。ロスケリヌス自身の著作として残っているのは、アベラルドゥスに宛てた書簡である。没年は1125年頃とされる。後には『普遍教師の文』という論考をその名に結びつける見方も出たが、著者と確定したものではない。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・アデリン (1120年没)
- カンタベリーのエアドメルス (1120年没)
- インゲゲルド・ハーラルスダッテル (1120年)
- ジェラルド (1120年没)
- エドガー・アシリング (1120年代没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ヴェルニエ (1637年没)
- マルグリット (ブロワ女伯) (1230年没)
- ジャンヌ1世 (ブルゴーニュ女伯) (1205年没)
- リュシアン・ローラン (2005年没)
- オトン1世 (ブルゴーニュ伯) (1200年没)