伝記
アンセルムスは、中世ヨーロッパの神学者・哲学者で、1093年から没するまでカンタベリー大司教を務めた。理性によって神を捉えようとした最初期の人物として「スコラ学の父」と呼ばれ、神の存在論的証明でも知られる。1033年ごろ、神聖ローマ帝国下のブルグント王国の都市アオスタに生まれた。父ガンドルフォはランゴバルドの貴族、母エルメンベルガはブルグントの貴族の出で大地主であった。父は息子を政治家にしたがったが、アンセルムスは思慮深く敬虔な母の信仰に強く影響された。15歳で修道院に入りたいと望んだが父の許しを得られず、失望して心因性の病を患い、回復後はしばらく神学を離れて放埓な生活を送ったといわれる。理解者だった母が亡くなると、父の激しい気性に耐えかねて、1056年(または1057年)に家を出た。
ブルグントとフランスを歩いて回るうちに、ル・ベック修道院の副院長ランフランクスの名を聞き、ノルマンディーへ向かった。そこに一年ほど滞在するうちに修道士として生きる決意を固め、27歳で入会した。幼いころから優れた教育を受けてきた才能は、このころから開花したとされる。1063年にランフランクスがカーンの修道院長に任命されると、アンセルムスはル・ベックの副院長に選ばれ、以後15年間その座にあった。1078年には創設者ヘルルイヌスの死を受けて修道院長となり、彼のもとでベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この時期に最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077〜78年)が書かれ、対話形式の『真理について』『選択の自由について』『悪魔の堕落について』も成立した。
1089年にランフランクスが没すると、教会への王権拡大を狙うイングランド王ウィリアム2世は、大司教座の土地と財産を押さえ、後任を約4年間も指名しなかった。1092年、チェスター卿ヒューの招きでしぶしぶイングランドに渡ったアンセルムスは、帰国しようとしたところを王に引き止められた。翌年、病に倒れて死を意識した王は、罪の許しを求めて彼をカンタベリー大司教に指名した。アンセルムスは、没収財産の返還や、対立教皇クレメンス3世を退けウルバヌス2世を教皇と認めることなどを条件に引き受け、1093年12月4日に叙階された。しかし王は病から回復すると約束をほとんど守らず、巨額の贈り物を求めた。アンセルムスはこれを聖職売買として断り、パリウムを受けるためのローマ行きも王に許されなかった。1097年、許可を得ずにローマへ赴くと王は帰国を認めず、大司教管区の財産を没収した。ローマでは教皇に迎えられ、バーリの会議で聖霊発出の教義を守る役を任され、カプア近郊で『神はなぜ人間になられたか』を書き上げた。
1100年にウィリアム2世が狩りの最中に死ぬと、即位したヘンリー1世はアンセルムスを呼び戻したが、やはり叙任権を求めて対立し、1103年4月から1106年8月まで追放の身となった。1107年、ウェストミンスターの会議で王が叙任権の放棄を約束して和解に至り、この合意は1122年のヴォルムス協約の模範となった。最後の二年間は大司教の職務に費やされ、1109年4月21日に没した。1494年に列聖され、1720年には教会博士の称号を得た。
同じ年に亡くなった人物
- アルフォンソ6世 (カスティーリャ王) (1109年没)
- アーデルハイト・フォン・キエフ (1109年没)
- Dominic de la Calzada (1109年)
- 周防内侍 (1109年)
- フルク4世 (1109年没)
同じ地域に関係する人物
- ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ (1882年没)
- エレン・テリー (1928年没)
- トマス・ブーリン (1539年没)
- ピーター・シレット (1998年没)
- ドゥンスタン (988年没)