HISTORICAL PERSON · 1109年没

アーデルハイト・フォン・キエフ

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の2番目の皇后。監禁から脱出し乱交や虐待への強制を公会議で公然と告発し、夫のハインリヒ4世を窮地に追い込んだ。

生涯
1109年没
死亡地
ウクライナ(キーウ)
出生地
ウクライナ(キーウ)
出典
世界地図
ウクライナ(キーウ)

伝記

アーデルハイト・フォン・キエフは、キエフ大公フセヴォロド一世とアンナ・ポロヴェツカヤの娘で、のちに神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世の皇后となった。生年は1067年ごろ、または1070年前後とされ、もとの名をエウプラキヤといった。父方の祖父はヤロスラフ賢公、祖母はスウェーデンの王女インゲゲルドで、母はクマン人の首長の娘であった。ルーリク朝の一員であり、異母兄にはキエフ大公となるウラジーミル二世モノマフがいた。父の姉妹たちもノルウェー、ハンガリー、フランスなどの王家に嫁いでいた。

最初の夫はノルトマルク辺境伯ハインリヒ一世である。シュターデ伯も兼ねたこの夫は、ロタール・ウド二世とオーダ・フォン・ヴェルルの子であった。婚姻に先立ち、エウプラキヤはザクセンへ送られ、婚約者の家で新しい生活や言葉に慣れることになった。さらにクウェードリンブルクの女子修道院に入り、皇帝ハインリヒ四世の姉妹である修道院長の監督のもとで、ドイツ語やラテン語などを学んだ。衣服や宝石などの財宝をラクダに積んだ華やかな到着であったとも伝えられる。1086年に辺境伯と結婚したとされるが、夫は1087年6月27日に没した。二人の間に子はなかった。夫と死別したのちもクウェードリンブルクの修道院で暮らし、そこで皇帝と出会った。皇帝も同年十二月に妃ベルタを失い、エウプラキヤの美しさにひかれたという。

1088年に皇帝と婚約し、1089年八月、ケルンで結婚した。皇后として戴冠し、アーデルハイトの名で呼ばれるようになった。この婚姻には、キエフと帝国の結びつきを強め、教皇と対立する皇帝への支援を得る期待があった。また、皇帝とザクセン人の敵対勢力との和解を確かめるための結婚で、皇后が同盟を保証する人質に似た立場にあった可能性も指摘される。しかし、イタリア遠征中の皇帝は、ヴェローナに着くと、市壁の外にあるサン・ゼーノ修道院へ皇后を監禁した。1093年、アーデルハイトはそこからカノッサへ逃れ、皇帝と敵対するトスカーナ女伯マティルデの保護を受けた。

アーデルハイトは、自分が受けた虐待を書簡で訴えた。1094年四月には、コンスタンツで教皇特使による宗教会議が開かれた。翌1095年三月、教皇ウルバヌス二世の勧めにより、ピアチェンツァ公会議の開かれている教会の前で、公然と皇帝を告発した。その内容は、意思に反して拘束されたこと、性的な集会への参加を強制されたこと、自分の裸身の上で黒ミサを行おうとされたことなどである。皇帝が実子コンラートに彼女をあてがおうとし、コンラートが憤って拒んだという話も伝わる。ただし、これは叙任権闘争でコンラートが教皇側につき、父に反抗したことを背景とする伝説である。乱交を強いられて妊娠し、子の父がわからなかったため皇帝のもとを離れたともいわれるが、皇帝との間に子がいたかどうかは確かでない。

のちに教皇の同意を得て夫と別れ、イタリアからハンガリーへ移った。1099年までその地で暮らしてから、故郷のキエフに戻った。1106年にハインリヒ四世が死去すると修道女となり、故国の修道院で余生を送った。1109年7月10日に没した。

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