伝記
アルフォンソ6世は、1040年六月以前に生まれた、カスティーリャ・レオン王フェルナンド一世とサンチャの次男である。父は王国とイスラム諸国から受け取る貢納金を子らに分け、アルフォンソにはレオンとトレドからの貢納を与えた。兄サンチョ二世にはカスティーリャ、弟ガルシア二世にはガリシアが割り当てられた。1065年、父の死によってレオン王となったが、一括相続を目指す兄と1068年に戦った。1071年には兄と協力して弟をセビリアへ追放したものの、翌1072年一月には自分も兄に捕らえられ、ブルゴスに幽閉された。姉ウラカの手引きで脱出し、トレドへ亡命した。
サンチョ二世はウラカの守るサモラを包囲したが、1072年十月に暗殺された。アルフォンソは帰還してカスティーリャとレオンを継ぎ、翌1073年には復帰を図るガルシアを捕らえた。弟を生涯幽閉することによってガリシアの王位も手に入れ、父の王国を再統合した。教会との関係では、改革を進めるクリュニー会を支援しつつ、教皇による支配には抵抗した。1077年、グレゴリウス七世がスペインの君主たちに臣従と地代を要求すると拒み、西ゴート王国の継承者としてヒスパニア皇帝を称した。クリュニー会へ多額の金や修道院を寄進し、教皇の介入と、教皇に臣従するアラゴン王を牽制した。
1080年にはクリュニー会員ベルナールを側近に置いた。ローマ典礼を取り入れ、司教区などの整備も進めたが、寄進に伴う増税や、修道院・町の引き渡しは、聖職者や庶民の不満を招いた。イスラム圏で暮らしてきたキリスト教徒には、モサラベ典礼の継続を認めるなど融和に努めた。イスラムの小王国に対しては、当初は領土征服よりも貢納の取り立てと内紛への介入によって影響力を及ぼした。トレドの内紛を機に1081年から包囲を行い、1085年に降伏を受け入れた。その条件は、住民の財産と信仰を守り、税額を変えず、退去や帰還も自由とするものであった。支配域はタホ川まで南下した。
1086年、ベルナールをトレド大司教に任命した。一方、セビリアにも圧力を加えたため、イスラム諸国は北アフリカのムラービト朝に救援を求めた。同年10月23日、ユースフ・イブン・ターシュフィーンの軍にサグラハスで敗れ、自らも重傷を負って退却した。ユースフがアフリカへ引き返したためトレドは失わずに済んだが、以後もムラービト朝との戦いは続いた。軍事力を補うため、娘ウラカとテレサをフランス貴族のレーモンとアンリに嫁がせ、ガリシアとポルトゥカーレを与えた。1097年にも大敗した。バレンシアを保っていたエル・シッドが1099年に没すると、その防衛は困難と判断し、1102年に未亡人を説得して同地から退去させた。
1108年、後継者に指名していた息子サンチョがウクレスの戦いで戦死した。アルフォンソは娘ウラカを新たな後継者とし、寡婦となっていた娘をアラゴン王アルフォンソ一世と再婚させる方針を決めた。翌1109年7月1日に没し、ウラカが王位を継いだ。しかし再婚には貴族の反対が強く、夫婦の不和も重なった。ウラカと先夫レーモンの子を擁立する一派も現れ、内乱となった。その隙にムラービト朝がトレドを攻撃し、王国は危機に陥った。
同じ年に亡くなった人物
- Dominic de la Calzada (1109年)
- スヴァトプルク (ボヘミア公) (1109年)
- 周防内侍 (1109年)
- クリュニーのユーグ (1109年没)
- アーデルハイト・フォン・キエフ (1109年没)
同じ地域に関係する人物
- ユースフ・アルフィフリー (756年没)
- フアン・デ・マリアナ (1624年没)
- メルチョル・カノ (1560年没)
- アタナギルド (567年没)
- Gregorio Maria Aguirre y Garcia (1913年没)