HISTORICAL PERSON · 988年没

ドゥンスタン

カンタベリー大司教。グラストンベリー修道院長としてベネディクト会の厳格な戒律を導入し、王の顧問として貨幣制定や度量衡、教育の振興にも尽力した。

生涯
988年没
死亡地
イギリス連邦(ケント / カンタベリー)
出生地
イギリス連邦(グラストンベリー)
出典
世界地図
イギリス連邦(ケント)

伝記

ドゥンスタン(ダンスタン)は、10世紀のイングランドの聖職者であり政治家である。909年頃(924年頃とする説もある)に生まれ、988年5月19日に没した。グラストンベリー修道院長、ウスターとロンドンの司教を経てカンタベリー大司教となり、カトリック教会・聖公会・正教会で聖人とされる。

サマセットのグラストンベリに近い小村、バルトンズバラで生まれた。父ヘオルスタンは富裕で、親類に3人の司教がいる有力な家柄であったという。若いころはグラストンベリーの廃墟に住むアイルランド人の修道士たちのもとで学び、さまざまな技芸を身につけることで知られた。のちに叔父のカンタベリー大司教アゼルムに招かれ、さらに国王アゼルスタンの宮廷に入って寵愛を受けたが、これが廷臣たちの妬みを招いた。魔術を行ったという嫌疑をかけられて宮廷を追われ、襲われて汚水だめに投げ込まれたと伝えられる。その後、叔父でウィンチェスター司教のエルフヘアのもとに身を寄せ、重い病を経て修道生活に入る決意を固めたという。グラストンベリーに戻ると、古い聖マリア教会の壁に寄せた小さな庵で暮らし、学問に励み、ハープを奏で、手仕事をした。

この時期のドゥンスタンは、金属細工や写本の制作に携わり、音楽家・彩飾師・金工師として名を高めた。王の姪にあたる貴婦人エセルフレドの相談役となり、彼女の死後に多額の遺産を受け取ったほか、父の遺産も継いだ。この資産は、のちにイングランドの修道院復興を進める資金になったとされる。アゼルスタンの死後は新王エドマンドの宮廷に召されたが、ここでも反対派の陰謀に遭った。やがて修道院長に任じられ、グラストンベリーにベネディクト会の厳格な戒律と禁欲を取り入れて、修道院の再建に取り組んだ。

国王エドレッドの顧問として強い政治力をふるったが、エドウィの時代の956年から957年にかけてはフランドルへ追放された。959年にエドガーに呼び戻され、同年カンタベリー大司教となった。北部のデーン人を鎮めて国民の一部に組み入れ、その古い権利を尊重して、彼らが選ぶ最高の法とともに保持させたうえ、教会や国家の高い地位にもつけた。商業にも関心を寄せ、貨幣の制定や度量衡の励行を進めた。アルフレッド大王の精神を引き継いで教育を振興し、翻訳事業を再開させ、フランスの高名な学者アボーをフリューリから招いた。法の権威を高める一方で、地主に十分の一税の支払いを強いたともされる。

エドガー平和王の死後、王位継承をめぐって修道院勢力と世俗勢力の対立が起こった。977年にカーンで開かれた会議では、世俗側がドゥンスタンを激しく非難したところ、2階の広間の床が抜けて敵対者たちが落下し死傷したが、ドゥンスタンの立つ梁だけは残ったという。この「カーンの奇蹟」は、修道院勢力の正しさを示すしるしとされた。内乱はわずかに食い止めたものの、彼が擁立したエドワード殉教王が暗殺されたのちはカンタベリーに引退し、988年に世を去った。学問への熱心さや多才さは、無学な王族や廷臣たちの不信を買うこともあったという。悪魔が美女に化けて誘惑に来たとき、赤く焼けたはさみで悪魔の鼻をつまんで退散させたという伝説があり、鍛冶屋や金属細工師の守護聖人とされる。また悪魔の蹄に蹄鉄を打ち、二度と蹄鉄のある場所に入らないと約束させたという話から、戸口に蹄鉄を掛ける魔よけの習慣が生まれたといわれる。こうした伝説は民謡やディケンズの『クリスマス・キャロル』にも言及されている。

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