伝記
ベレニケ2世は、古代エジプトのプトレマイオス朝の王妃であり、女王とも呼ばれる人物である。生年は紀元前267年または266年とされるが、この年代は近代の復元であり、古代の記録に明記された数字ではない。キュレネ王マガスと、シリア王アンティオコス1世の娘アパメー2世のあいだに生まれた、ただ一人知られる娘であった。父方・母方の両方で、アレクサンドロス大王の死後に築かれた王家の縁戚網に連なっていた。
父マガスは、かつてアレクサンドリアの宮廷から独立してキュレネを治めた人物で、晩年にベレニケをエジプトの王太子、のちのプトレマイオス3世に嫁がせる約束を取り決めた。ところが紀元前250年か249年ごろにマガスが没すると、母アパメーはこの約束をマケドニアとの同盟に替えようとし、娘をデメトリオス(美男王)に嫁がせた。伝承によれば、デメトリオスはアパメーの愛人となり、怒ったベレニケが彼を殺させたが、母は守ったという。ただしこの場面は後世の劇的な語りにしか見えず、確かめようがない。二人に子はなかった。その後、キュレネ人が一時共和政を敷いたとされ、ベレニケが自ら女王としてキュレネを治めたかどうかは研究者の間でも意見が分かれ、はっきりしない。
紀元前246年ごろ、ベレニケはプトレマイオス3世と結婚した。この結婚は父の取り決めを実現し、キュレナイカをプトレマイオス朝の勢力圏に戻した。公式の系譜では二人は兄妹として示されたが、これは王朝が作り上げた建前であった。夫妻のあいだには6人の子が生まれ、のちのプトレマイオス4世、アルシノエ3世、マガス、アレクサンドロスらがいた。幼くして亡くなった娘ベレニケは、カノポス決議によって王朝の祭祀に加えられた。
結婚の直後、夫は第三次シリア戦争に出陣し、ベレニケはアレクサンドリアに残った。夫が遠征している間、顧問団とともに内政を管理して手腕を示したといわれるが、正式な摂政の地位にあったかどうかには定説がない。ただ、宮廷と行政において並外れた地位にあったことは確かとされる。王妃の名と肖像を刻んだ金・銀・青銅の貨幣が大量に造られ、詩や記念碑、王朝の祭祀を通じてその姿が広められた。紀元前238年のカノポス決議は、王と王妃が穀物を多額の費用をかけて輸入したことを称えている。
後世にもっともよく知られているのは髪の毛の逸話である。夫が無事に戻れば、美しさで名高い自分の髪を女神アプロディテに捧げると誓い、夫の帰還後に髪を切って神殿に供えた。ところが翌朝には髪が消えていた。王と王妃は激怒し、神官たちは死を覚悟したが、宮廷天文学者コノンが、女神が髪を気に入って天に上げ星座にしたのだと述べ、しし座の尾のあたりを指し示した。これによって神官たちは救われたという。この領域が今のかみのけ座である。この出来事は詩人カリマコスにたたえられ、ラテン語ではカトゥルスが伝えた。紀元前221年、夫の死の直後に、息子のプトレマイオス4世や廷臣たちの陰謀によってベレニケは殺されたといわれる。また、紀元前245年から241年のネメア競技祭や、時期は不明ながらオリュンピア祭にも参加したと伝えられている。その名は町や天体にも残った。ヘスペリデスの町は彼女によって再発見され、ベレニケと改称された。これが現在のベンガジである。また1907年に発見された小惑星(653)ベレニケも、彼女にちなんで名づけられた。
同じ年に亡くなった人物
- アンティゴノス3世 (紀元前221年没)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官) (紀元前221年没)
- エウクレイダス (紀元前 221年)
- 宋玉 (紀元前 221年)
- ハスドルバル (ハミルカルの娘婿) (紀元前221年没)
同じ地域に関係する人物
- シュネシオス (413年没)
- アゲシラオス2世 (紀元前360年没)
- Arcesilaus I of Cyrene (紀元前582)
- Battus II of Cyrene (紀元前600)
- アルケシラオス3世 (紀元前600)