伝記
アンティゴノス3世は、アンティゴノス朝マケドニアの王である。ドソンの呼び名でも知られ、紀元前263年に生まれたとされる。曾祖父は「独眼」のアンティゴノス、祖父は攻城者デメトリオスで、前王アンティゴノス2世ゴナタスの甥、先王デメトリオス2世の従兄弟にあたる。父は美男のデメトリオスと呼ばれ、キュレネの王となり、プトレマイオス家と母方で縁があったとされるが、父についてはあまり多くが知られていない。母はテッサリア出身のオリュンピアスという人物で、ラリサのポリュクレトスの娘だったという。兄弟にエケクラテスがいた。若いころの様子は史料からはわからず、父がキュレネへ移った際には同行せずマケドニアに残り、おじゴナタスの下で教育を受けたのではないかと推測されている。ほかの貴族の若者と同じく、体の鍛錬や狩猟を通じて軍務に備えたのだろうとも考えられている。
紀元前229年、デメトリオス2世がダルダニア人との戦いで戦死すると、王位をめぐる危機が起きた。しかしマケドニア人の民会は、デメトリオス2世の幼い息子ピリッポス(のちのピリッポス5世、当時9歳)の後見人兼将軍(エピトロポス)としてアンティゴノスを指名した。アンティゴノスはデメトリオス2世の寡婦クリュセイスと結婚してピリッポスを養子にしたとされる。古代の著述家は彼に複数のあだ名を与えており、意味が明確なのは「後見人」(エピトロポス)だけである。のちに王の称号を得たのは紀元前227年ごろで、このとき息子ピリッポスを廃嫡して王となったという見方もある。簒奪者のようにふるまったことはなかったとされる。ドソンの名は「(権力を)返す者」を意味するともいわれるが、語源は不明である。
アンティゴノスはダルダニア人を抑え、アイトリア人にはこの年に和平を結ばせ、エーゲ海やギリシア中部での影響力を固めた。アテナイは150タラントンと引き換えにペイライエウスなどの守備隊の引き渡しを交渉し、紀元前228年に自由を得た。ギリシアの三つの同盟が互いに争う状況を利用し、紀元前227年にはカリアへ遠征した。アリンダの有力者オリュンピコスの助けを得てプリエネやサモスに影響を及ぼし、カリアの支配権も握ったが、マケドニアが恒久的に占領や統治をしたわけではない。この遠征の目的はよくわかっておらず、マケドニアの海上の力を示すためや、プトレマイオス朝の影響力に対抗するためだったと考えられている。
ペロポネソスでは、スパルタ王クレオメネス3世の勝利でアカイア同盟が追い詰められていた。シキュオンのアラトスは紀元前226年から接近を図り、紀元前224年にアカイア同盟はアンティゴノスを盟主に選んだ。同盟はペラに人質を送り、最初の一年はマケドニア軍の食糧と給与を負担し、許可なく他の王国に近づかないことも約束したという。こうして始まったクレオメネス戦争では、アンティゴノスは苦戦したものの、敵を大きく上回る物量で巻き返し、紀元前222年のセラシアの戦いで決定的な勝利を収めた。クレオメネスはエジプトへ亡命した。
翌紀元前221年、イリュリアの諸都市との戦いのさなか、アンティゴノスは戦死した。部下を励まして叫び続けるうちに血管が切れたためだという。ポリュビオスは、ギリシア中部・南部でアンティゴノス朝の支配を立て直した慎重な治世として、友人アラトスとの関係とともに好意的に描いている。
同じ年に亡くなった人物
- エウクレイダス (紀元前 221年)
- ハスドルバル (ハミルカルの娘婿) (紀元前221年没)
- 宋玉 (紀元前 221年)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官) (紀元前221年没)
- ベレニケ2世 (紀元前221年没)
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