伝記
ハスドルバルは、紀元前3世紀のカルタゴの軍人・政治家で、ハミルカル・バルカの娘婿である。美男子ハスドルバルとも呼ばれ、紀元前221年に没した。ハミルカルの死後にその地位を継いでヒスパニア(イベリア半島)を支配した。義弟にはハンニバル、同名のハスドルバル、マゴがいる。美男子というあだ名はコルネリウス・ネポスが付けたもので、ネポスとリウィウスはハミルカルとの同性愛関係をほのめかしたが、これには確かな証拠がなく、作り話にすぎないとする研究者もいる。出自や家族については、史料からほとんど何もわからない。
第一次ポエニ戦争の後、ハスドルバルは若くして民衆派の政治家として台頭した。カルタゴの有力者の一人であったらしい。シチリアでの行動を問われてハミルカルが訴追されかけたとき、民会での人気の高かったこの娘婿の支持が、有罪を免れる助けになったという。ハミルカルの娘を最初に娶ったのは戦争の終わりごろで、その結婚は長く続かなかったともいわれる。傭兵戦争でもハミルカルの重要な政治的支えになったようである。
ハミルカルがヒスパニアの沿岸にあるカルタゴの領地へ向かった紀元前238年、ハスドルバルもハンニバルとともに同行し、その征服に加わった。ポリュビオスによれば三段櫂船の船長という臨時の役を与えられた。この同行については、バルカ家とその反対派の間で、市内の平穏を保つため彼を出発させる取り決めがあったとする解釈もある。のちに東ヌミディアで反乱が起こると、ハミルカルに送られて鎮圧に当たり、勝利を収めた。ハミルカルが新しい土地の征服を進める間、ハスドルバルは征服地の統制とガデスの忠誠の確保を任されていたとも考えられている。
紀元前229年の冬、ハミルカルがオレタニ人との戦いで死ぬと、配下の者たちは本国に新たな司令官としてハスドルバルの派遣を求めた。ヒスパニアでの指揮権は選挙で決まる役職で、ハスドルバルは兵士たちに歓呼で迎えられ、カルタゴの民衆にも承認されたとされる。このとき、40歳になるかならないかの年齢であった。まず義父の死に報いるため、オレタニ人の首長オリッススに対する懲罰の遠征に出たという。ハミルカルの長子ハンニバルは副司令官に任じられ、古参兵の忠誠を確保する役を担った。
紀元前228年にヒスパニアへ到着してからは、卓越した政治的・外交的手腕を発揮し、カルタゴ人とイベリア人の融和に努めた。両者の婚姻の勧奨もその一環で、彼自身もイベリア人の族長の娘を娶っている。紀元前227年ごろには、良港に恵まれ銀山にも近いカルタゴ・ノウァ(のちのカルタヘナ)を建設し、ここを根拠地として支配領域を広げていった。若いハンニバルに指揮を委ねて経験を積ませたともいう。征服地にはマッサリアの植民市ヘメロスコピウム、アロニス、アリカンテが含まれ、マッサリアと同盟を結ぶローマを刺激した。紀元前226年、ハスドルバルはローマと条約を結び、勢力圏の北限はエブロ川と定められた。条約がカルタゴ本国ではなく彼個人の名で結ばれた点から、本国からの自立を狙った野心の表れとみる見方も多いが、定かではない。ハミルカル、ハスドルバル、ハンニバルのヒスパニア支配が本国の統制に必ずしも従っていなかったことは事実である。紀元前221年、ハスドルバルはカルタゴ・ノウァで暗殺され、ハンニバルが後を継いだ。仕えていた奴隷の一人が、ハスドルバルに殺された以前の主君の仇を討ったのだという。
同じ年に亡くなった人物
- 宋玉 (紀元前 221年)
- ベレニケ2世 (紀元前221年没)
- アンティゴノス3世 (紀元前221年没)
- エウクレイダス (紀元前 221年)
- ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前251年の執政官) (紀元前221年没)
同じ地域に関係する人物
- フロレンティーナ・デ・カルタヘナ (615年没)
- ナルシソ・イエペス (1997年没)
- イングリッド・フィッセール (2013年没)
- バルタサール・イダルゴ・デ・シスネロス (1829年没)
- イシドールス (636年没)