HISTORICAL PERSON · 1096年没

ジョフロワ3世 (アンジュー伯)

アンジュー伯・トゥール伯。伯父の跡を継いだが器量不足と評され、サントンジュを奪われメーヌもノルマンディー公ウィリアム1世に奪われるなど領地を失った。

生涯
1096年没
死亡地
—
出生地
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県 / シャトー=ランドン)
出典
世界地図
フランス共和国(セーヌ=エ=マルヌ県)

伝記

ジョフロワ3世は、1040年ごろに生まれたガティネ伯ジョフロワ2世フェレオルとエルマンガルドの長男である。母はアンジュー伯フルク3世ネラの娘であった。顎鬚を生やしていたため、髭を意味するル・バルビュの異名で呼ばれる。1045年ごろに父を失い、母はブルゴーニュ公ロベール1世と再婚した。ジョフロワは姉イルドガルド、弟フルクとともに、母方の伯父アンジュー伯ジョフロワ2世マルテルの後見を受けて育った。1056年にはガティネ伯位とシャトー=ランドンの領地を継承した。1060年までにランジェ領主アムランの娘ジュリアンヌと結婚したが、二人の間に子は生まれなかった。

1060年、子のいなかった伯父マルテルの遺領が兄弟に分けられ、ジョフロワはアンジュー伯とトゥール伯になった。弟フルクにはサントンジュとヴィイエールが与えられた。ところが家臣たちからは、ジョフロワの領主としての力量は先代に及ばないと評された。1062年にはアキテーヌのギー=ジョフロワがサントンジュを奪い、フルクはその地を失った。続いて1063年にはノルマンディ公ウィリアムがメーヌを占領し、ジョフロワもその支配を失った。翌年、家臣のシャトー=ゴンティエ領主に助力を求めたが、断られた。領土をめぐる不利に加え、聖職者との対立も深まった。マルムーティエ修道院に侵入し、ル・マン司教の選出をめぐってトゥール大司教とも争ったのである。司教選挙で自らの推す候補を支持するよう求めたことから破門を受けたが、その年は1065年とも1067年ともされる。

サントンジュを失ってヴィイエールだけでは満足しなかったフルクは、兄に反対する有力家臣たちを味方に引き入れた。1067年、フルクは反乱を起こし、アンジェで家臣の裏切りを利用してジョフロワを捕らえ、牢に入れた。兄に背いた者たちも安全ではなく、翌日の市民の暴動で、ジョフロワ・ド・プルイイ、シャトー=ゴンティエのルノー、モントルイユのジローらが殺された。アンジェの役人ロベールも捕らえられ、ほどなく同じ運命をたどった。兄弟は一時和解したものの、争いは再燃した。1068年、ジョフロワはブリサック=カンセの戦いで敗れ、再び弟に捕らえられた。こうしてアンジューとトゥールの統治を奪われ、ガティネ伯としての支配も終わった。以後、ジョフロワはシノンで長い幽閉生活を送ることになった。

フランス王フィリップ1世やブロワ伯ティボー3世らは、フルクのやり方を非難して兄の釈放を求めた。弟は周囲との関係を調整するため、ガティネの領地を王に差し出したが、釈放要求には従わなかった。ジョフロワは歴史上最後のガティネ伯となった。ジョフロワを退けても、フルク4世の伯位を認めない家臣の反乱は続いた。アンジューは戦乱に見舞われ、数年後にフルクが家臣たちから伯と認められたときには、伯領は縮小していた。ジョフロワには、名を呼ばれて立ち止まった際、疲れ切った顔を見せ、監房へ入って泣いたという話が残る。1096年、教皇ウルバヌス2世の介入によってようやく自由を得たとされる。しかし長年の拘禁で精神を病んでおり、釈放後まもなく死去した。没年は1096年とも1097年ともいわれる。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物