伝記
ジャンゴ・ラインハルトは、1910年1月23日にベルギーのリベルシーで生まれたギター奏者である。出生届に記された名はジャン・バティスト・ラインハルトで、「ジャンゴ」はロマ語で「私は目覚める」を意味するあだ名だった。両親はロマの旅芸人の一座にいて、その巡業中にベルギーに滞在していたときに生まれた。幼いころから家族とヨーロッパ各地を旅して過ごし、ギターやヴァイオリンの演奏を身につけた。1920年からは主にパリの周辺で暮らすようになり、十代前半よりパリのダンスホールで演奏を始めて、このころは主にバンジョーを弾いていた。本人によれば、1926年に行った歌手の伴奏が初めての録音だったという。同じ年にビリー・アーノルドのバンドの演奏を聴いてジャズに傾倒した。
1928年からフランス・グラモフォンなどのレーベルで録音を始めたが、この年の10月26日未明、キャラバンの火事を消そうとして半身に大やけどを負った。右足は麻痺し、左手の薬指と小指には障害が残った。診察した医師はギターの演奏は二度とできないと考えたが、練習によって独自の奏法を確立し、障害を克服した。メロディを弾くときは主に人差し指と中指で弦を押さえ、薬指と小指はコードの際に高音弦を押さえる程度に使った。この特殊な奏法が独特のコード進行をもたらしたと、盟友ステファン・グラッペリは分析している。1931年にそのグラッペリと出会い、1934年には彼らとともに、弦楽器だけで構成されるフランス・ホット・クラブ五重奏団を結成した。1935年にはコールマン・ホーキンスと共演し、この年の夏から、トレードマークとして知られるセルマー・ギターを使い始めた。
1936年の秋から冬には放浪生活を懐かしみ、公演をすっぽかしたこともある。1937年にアメリカのラジオ番組を通じて五重奏団の演奏がイギリスやアメリカでも放送された際、司会者が彼とグラッペリの共作曲「ジャンゴロジー」をグラッペリの作曲と紹介してしまい、激怒して演奏を拒もうとしたという。1938年に初のイギリス公演を行ったが、1939年夏のイギリス・ツアーの最中に第二次世界大戦が始まった。ジャンゴらは残りの公演を取りやめてフランスへ戻る一方、グラッペリはロンドンに残ることを決め、五重奏団は解散し、二人は1946年まで別々の道を歩んだ。フランスがドイツに占領されてからも音楽活動を続け、1940年12月13日に録音した自作曲「ヌアージュ」は10万枚以上を売る大ヒットとなった。占領下のフランスで即席の賛歌のように愛されたと、当時のベーシストは回想している。
1946年1月にイギリスへ渡って再びグラッペリと共演し、同じ年にデューク・エリントンに招かれて初のアメリカ・ツアーを行った。リハーサルで「1曲目のキーは何にする」と問われて「キーなんてない」と答え、エリントンを戸惑わせながらも見事に演奏についていったという。カーネギー・ホールのコンサートには大幅に遅刻し、終演ぎりぎりに到着したという逸話がある。1949年初頭にグラッペリとローマで演奏した録音は、のちにLP『ジャンゴロジー』にまとめられた。その後は家を売り、キャラバンで暮らしたのち、1951年からセーヌ=エ=マルヌ県で家を借りた。1953年5月16日、ジャンゴは友人の店で突然倒れ、その日の夕方に亡くなった。死因は脳出血とされる。ロマ音楽とジャズを融合した彼の音楽は、ジプシー・スウィングの源流とされ、ギターをソロ楽器として用いた先駆けとして、後世のミュージシャンに大きな影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ノエ・ジョルダニア (1953年没)
- ボグダン・コブロフ (1953年没)
- アルベール・グレーズ (1953年没)
- Prince Oscar Bernadotte (1953年没)
- Karl Staaf (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- Henri Herouin (1926年没)
- ジャンヌ・デヴルー (1371年没)
- Jean Guillaume Audinet-Serville (1858年没)
- ニコロ・デッラバーテ (1571年没)
- マルセル・ドゥティエンヌ (2019年没)