伝記
マリー・ド・フランスは、1145年に生まれ、1198年3月11日に没した、フランス王女で、シャンパーニュ伯アンリ1世の妃である。フランス王ルイ7世と、最初の王妃アリエノール・ダキテーヌの長女で、同母妹にアリックスがいる。1144年に、出産を願った母がクレルヴォーのベルナルドゥスに祈願して妊娠し、翌1145年に生まれたのがマリーだった。しかし1152年に両親の婚姻の無効が成立すると、マリーと妹アリックスの親権は父のものとなった。母は、アンジュー伯アンリ、のちのイングランド王ヘンリー2世と再婚し、マリーは、のちにリチャード1世となる弟たちの異父姉となった。
1160年、父は、アデル・ド・シャンパーニュと3度目の結婚をし、マリーとアリックスを、アデルの兄であるシャンパーニュ伯アンリ1世、ブロワ伯ティボー5世と、それぞれ婚約させた。婚約後、マリーはシャンパーニュのアヴネの修道院に送られ、教育を受けた。1164年、マリーとアリックスの、アンリ1世とティボー5世との二重結婚が行われた。1179年から1181年まで、アンリ1世が聖地巡礼に出ると、マリーは伯領の摂政としてとどまった。夫の不在のうちに父が亡くなり、異母弟のフィリップ2世が即位した。フィリップ2世は、実母アデルの寡婦領を没収し、かつてマリーの長男と婚約していたイザベル・ド・エノーと結婚した。このことから、フィリップ2世への陰謀をめぐらす不満な貴族の集まりに、マリーが加わるよう促された。集まりには、前王妃アデルやランス大司教も加わっていた。最終的に、マリーと弟との関係は改善された。夫は聖地から帰国してまもなく亡くなった。4人の幼い子をもつ寡婦として、マリーはフランドル伯フィリップ1世との結婚を考えたが、婚約は原因不明のまま破棄された。
1181年にアンリ1世が亡くなってから、長男アンリ2世が成人した1187年まで、マリーはジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアンを側近に取り立てて、摂政を務めた。しかしアンリ2世も聖地へ向かったため、1190年から再び摂政となり、1197年にアンリ2世が亡くなるまで、その地位にあった。マリーは、モー近郊のフォンテーヌ・レ・ノーヌ女子修道院に引退し、1198年に亡くなった。異母妹マルグリットの死と息子アンリ2世の死の知らせが、近い時期に聖地から届き、マリーはひどく悲しんで、その3か月後に亡くなったという。遺体はモーの大聖堂に葬られた。
マリーは、文学の庇護者でもあり、トロワの宮廷には、宮廷付きの司祭、カペラヌス、クレティアン・ド・トロワ、コノン・ド・ベテュヌらがいた。クレティアンに依頼して『ランスロまたは荷車の騎士』を書かせたが、作品は未完のまま放置され、ゴドフロワ・ド・ラニーが続きを書いて完成させた。カペラヌスに書かせた『恋愛論』を参考にして「愛の宮廷」を開き、男女間の恋愛を疑似裁判に持ち込み、貴婦人が判決を下す催しを行ったとされる。マリーは、フランス語とラテン語を読み書きでき、自分の図書室をもっていた。異父弟リチャード1世とは深い愛情で結ばれ、リチャード1世からは、囚われの身を嘆く詩を捧げられた。アンリ1世との間には、エルサレム王となったアンリ2世、ラテン皇帝ボードゥアン1世の妃となったマリー、ティボー3世、スコラスティクの4子が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- コスタンツァ (シチリア女王) (1198年没)
- フリードリヒ1世 (オーストリア公) (1198年没)
- Saint Bertold (1198年没)
- グリエルモ3世 (1198年没)
- ソフィヤ・ウラジミロヴナ (1198年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュール・パドルー (1887年没)
- オトン4世 (ブルゴーニュ伯) (1087年没)
- キャサリン・マンスフィールド (1923年没)
- ルイーズ・ド・サヴォワ (1531年没)
- エティエンヌ・ベズー (1783年没)