HISTORICAL PERSON · 1096年没

ハインリヒ3世 (ルクセンブルク伯)

ルクセンブルク伯コンラート1世とクレマンス・ダキテーヌの子で、1086年に父の死後ルクセンブルク伯を継ぎ、エヒタナハのフォークトも務めた。1096年に死去し、弟ヴィルヘルムが伯位を継いだ。

生涯
1096年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ハインリヒ3世は、ルクセンブルク伯コンラート1世とクレマンス・ダキテーヌの息子で、1070年に生まれたとされる。母はポワティエ伯・アキテーヌ公の家系に連なる女性であった。父が二つの修道院の創設に関して出した文書には、母とともにハインリヒの名も現れる。父コンラートはザンクト・マクシミン修道院をめぐりトリーア大司教と争い、大司教を捕らえて破門されたと伝えられる。その後教会と和解し、エルサレム巡礼に出たが、帰途のイタリアで1086年8月8日に死去した。父の死を受けてルクセンブルク伯位を継いだのがハインリヒである。二年後、母と子供たちは父の遺体を引き取り、アルトミュンスター修道院の地下に葬ったという。父を記念する鉛板にも、ハインリヒの伯位継承が記された。

ハインリヒはルクセンブルク城を恒常的な居所としたことが知られる最初の伯である。1089年の文書ではルクセンブルクのハインリヒ伯と呼ばれ、この呼称が文書で確かめられる最初のルクセンブルク伯でもあった。また一族に世襲されていた聖ウィリブロルド修道院とザンクト・マクシミン修道院の保護職を持った。エヒタナハの聖ウィリブロルド修道院に対する保護職は、従兄弟のザルム伯ヘルマン2世も署名した1095年の文書に現れる。父の代から続いたトリーア大司教との争いを収め、叙任権闘争では父と同じく皇帝ハインリヒ4世を支持したとされる。大司教エギルベルトとの間では、帝国を除くあらゆる敵との戦いで大司教を援助することを条件に、600マンスの土地を受け取る契約を結んだ。ところが伯の早い死により契約はすべて履行されず、本人が受け取ったのは300マンスにとどまった。

ハインリヒは結婚せず、子孫を残さないまま1096年ごろに死去した。正確な没日は分かっていない。弟ヴィルヘルムが次のルクセンブルク伯となり、大司教との契約による土地の残り半分も弟に渡った。その統治中の出来事はほとんど知られておらず、後世のルクセンブルク史の叙述では、長く統治者の列に数えられないこともあった。19世紀にはエルンストとシェッターが、ハインリヒを実際に統治した伯と認めるべき根拠を示した。一方、ナイエンは伯としての統治を否定する見方を唱え、その地位の理解をめぐって議論が行われた。

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