伝記
アリー・リダーは、八世紀後半に生まれ、818年に没した、シーア派十二イマーム派の第8代イマームである。名はアリー・イブン・ムーサー・イブン・ジャアファルといい、ペルシア語圏ではエマーム・レザーの名で知られる。生年は766年とも、765年ごろとも、770年ごろともいわれる。マディーナで生まれ、父は第7代イマームのムーサー・カーズィムで、ハールーンの命により何度か投獄され、最後はバグダードの獄中で殺されたと伝わる。母の名も一定せず、ウンム・アル=バニーンやナジュマー、あるいはトゥクタムなど複数が伝えられる。奴隷の身分の女性は持ち主ごとに違う名で呼ばれたためではないかという見方が示されている。
アリーは父の手で教育を受けた。799年、35歳のときに父が没し、イマームの地位を継いだ。当時のアッバース朝カリフはハールーン・アッ=ラシードで、カリフはアリーを好ましく扱わず、マディーナの人々がアリーのもとを訪れて学ぶことも禁じられた。カリフはアリーの殺害さえ試みたが、失敗に終わったという。一方、ハールーンとその子アミーンの時代には、アリーは他の宗教の人々としばしば議論し、イスラームの教えやシーア派を広めており、政権はこの間アリーと正面から争わなかったともいわれる。なお、アリーの妻子については、マディーナに妻がいたこと、息子ムハンマド・タキーの母は元は奴隷であったこと、のちに後継指名を受けてからカリフの妹ウンム・ハビーバと結婚したことが伝わる。子の数や名は伝えによって異なる。
ハールーンの死後、二人の息子アミーンとマアムーンのあいだで内戦が始まった。アミーンはアラブ人の母を持ってアラブ人の支持を得、異母兄のマアムーンはペルシア人の母を持ち、ペルシア系の人々に支えられた。マアムーンはペルシア系の人々がハーシム家に好意的だと考え、アリーに対しペルシアへ赴いて会見するよう命じた。アリーは妻と一人息子ムハンマド・タキーをマディーナに残し、マルヴへ向かった。アリーは当初この地位を受けることを拒んだが、マアムーンは200年(ヒジュラ暦)にマルヴへ召し出し、翌年に受諾を強いたという。
アミーンを倒したマアムーンは、アリーを自らの後継者に指名した。シーア派の支持を得ようとしたものであったが、その継承にはアリーがマアムーンの死のときに存命であることが条件となっていた。マアムーンはアッバース朝の黒い旗を、初代イマームのアリー以来の一族の色とされる緑へ改めることさえした。しかしバグダードのアッバース家の人々は反発し、マアムーンを退けて叔父のイブラーヒーム・イブン・アル=マフディーをカリフに立てた。マアムーンはこれに備えてアリーを伴い、バグダードへ向かった。
途中、宰相のファドル・イブン・サフルが殺され、その二日後にトゥースへ着いたところでアリーは病み、818年に亡くなった。マアムーンが毒を盛ったと見る学者もおり、シーア派はこの見方に立ってアリーを殉教者とする。没日は5月26日とも、6月6日とも、8月23日ともいわれる。遺骸はトゥースの村に葬られ、墓は聖廟となって周囲に町が生まれた。この町がマシュハドで、その名は「殉教の地」を意味するマシュハデ・レザーに由来する。巨大な廟と複合施設を備え、今も多くの巡礼者を集めている。
同じ年に亡くなった人物
- ベルナルド (イタリア王) (818年没)
- エルマンガルド・ド・エスベイ (818年没)
- ファドル・ブン・サフル (818年)
同じ地域に関係する人物
- アブル・カースィム・クシャイリー (1072年没)
- Muhammad of Khorasan (910年没)
- Mirza Abul-Qasim Babur bin Baysonqor (1457年没)
- ハールーン・アッ=ラシード (809年没)
- Al-Hurr al-Aamili (1693年没)