HISTORICAL PERSON · 1066年没

蘇洵

北宋の文人で唐宋八大家の一人。蘇軾・蘇轍の父で、三蘇と称される。27歳で学問を再開して六経百家に通じ、欧陽脩に著書を献呈した。文集『嘉祐集』があり、『弁姦論』は後に王安石を指すとされ有名になった。

生涯
1066年没
死亡地
—
出生地
中華人民共和国(四川省 / 眉山市)
出典
世界地図
中華人民共和国(四川省)

伝記

蘇洵は、中国北宋の文人であり、唐宋八大家の一人に数えられる。1009年5月22日に生まれ、1066年5月21日に没した。字は明允、号は老泉で、老翁井という泉のそばに亭を結んだことにちなむ。蘇軾・蘇轍の父であり、三人は三蘇と称される。息子の蘇軾を大蘇、蘇轍を小蘇と呼ぶのに対し、蘇洵は老蘇と呼ばれた。

出身は眉州眉山県で、現在の四川省眉山市東坡区にあたる。裕福な家に生まれ、唐代前期に眉州刺史を務めた蘇味道の次男の末裔と称するが、自ら書いた族譜でも蘇味道から曾祖父までの事跡には触れておらず、はっきりしない。兄が二人おり、いずれも進士となっている。幼いころから書物を読んだが、すぐに学問をやめて無頼の仲間と交わった。27歳のころ思うところあって学問を再開した。当時としては遅い出発とみられたという。進士や茂才の科挙を何度も受けたが、いずれも及第しなかった。37歳のとき、音律や形式を重んじる科挙向けの文章から離れ、孔子や孟子など先秦の古典と思想を十年あまり独学した。その結果、六経と諸子百家の学に通じ、文章と書の名人となった。この間、二人の息子にも歴史・文学・思想を教え導いた。

1056年、47歳の蘇洵は蘇軾・蘇轍を連れて都の汴京に上り、翰林学士の欧陽脩に会った。「権書」「衡論」などの二十二篇を献じ、政治・経済・軍事についての意見を示した。欧陽脩は文章を高く評価し、荀子に比したといわれる。都の士大夫たちは競って蘇洵の文を読み、まねたという。宰相の韓琦のはからいで舎人院に召されることになったが、病気を理由に辞退した。1057年には二人の息子がそろって高い成績で科挙に合格し、都を驚かせた。だが、その喜びのさなかに妻の程氏が亡くなり、一家は深い悲しみに沈んだ。1058年には仁宗が試験のために召したが、蘇洵は体調を理由に辞した。

蘇洵は秘書省校書郎となり、のち太常寺の命で覇州文安県主簿の禄を受けた。陳州項城県令の姚闢とともに、建隆年間以来の礼書を編纂し、太常院革礼100巻の完成まもなく没した。死後、特に光禄寺丞を贈られた。官職の資格を欠いたため、政治の経歴は二人の息子に及ばなかったが、独学によって散文と政論の大家となった。曾鞏は「蘇明允哀詞」で、その文は壮大さと明晰さを兼ね、比喩によって抽象を具体に、遠い事柄を身近に引き寄せると評した。現代の研究者には、修辞と説得に富む点が『戦国策』に通じるとみる者もいる。蘇洵の政治・歴史論は議論のための議論ではなく、当代の課題を分析し批判するためのもので、言葉は簡潔で力強かったという。

その文章は真率で気骨があり、先秦の風があるとして慕われた。経書を論じるときも自らの常識から出発し、聖人と覇者を殊更に区別しなかった。「書論」では周の武王が聖人ではなかったと論じ、儒家の因習を顧みない大胆さは、実用を重んじた欧陽脩や王安石も及ばなかったという。政治面では、北宋が契丹(遼)に贈り物を送って平和を買う習慣を姑息と考え、内政を引き締めて兵の規律を確立し、国家の安泰をはかるべきだと主張した。「二子に名づくる説」では、軽く見られがちな車の横木を意味する「軾」を長子に、車の轍を意味する「轍」を次子に名づけ、才気あふれる蘇軾に自制を促し、慎重で目立たない蘇轍の気質を見抜いたとされる。蘇軾はこの忠告を十分には聞かず、波乱の官歴をたどったが、蘇轍は安定した経歴と比較的穏やかな生涯を送った。王安石の新法より前に亡くなったが、『弁姦論』は新法・旧法の争いの時代に、「姦」が王安石を指すとされて有名になった。著作に『嘉祐集』『諡法』などがある。

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