伝記
コナン2世は、11世紀のブルターニュ公である。1033年頃にレンヌで生まれ、1066年12月11日にアンジュー方面への遠征中に没した。父は公アラン3世、母はベルト・ド・ブロワで、レンヌ家の長男にあたる。
1040年に父が死んだとき、コナンはまだ幼かった。叔父のエオン(オドとも呼ばれる)は母ベルトとともにコナンの後見を分け持っていたが、ベルトが再婚すると後見を一人で握り、公国の実権を手にした。エオンはのちにイングランド王となるノルマンディー公ギヨームの敵対者の一人でもあった。コナンが成人に達しても叔父は権限を手放そうとせず、コナンは、ギヨームがヴァル・エス・デュヌで敵対勢力を破って叔父が弱ったのちに、ようやく後見から離れたという。1048年にブルターニュ公として認められたとされる。1057年にはコナンが叔父を捕らえ、鎖でつないで監禁したともいわれる。
コナンは、ナント伯マティアスが跡継ぎなく死ぬと、一時的にナント伯領へ勢力を広げた。同伯領はコルヌアイユ伯アランも妻ジュディットの権利として主張したが、1054年には二人の子オエルが継ぎ、オエルはのちにコナンの妹アヴォワーズと結婚して義弟となった。治世のコナンは、貴族の反乱を含むさまざまな脅威に直面した。ケルト系の独立した公国であるブルターニュは、隣のノルマンディーと歴史的に敵対しており、反乱側をギヨームが支援していた。1064年から1065年のブルトン・ノルマン戦争は、ギヨームがドルの貴族リヴァヨンをそそのかして反乱を起こさせたことが発端である。この遠征はバイユーのタペストリーにも描かれている。ギヨームはコナンにドルの包囲を解かせ、レンヌの城壁近くからディナンまで追ったが、補給を断たれて自国へ退かざるをえなかったとされる。この失敗はコナンの立場を強めたともいう。1065年の公式の訪問では、コナンは三十人ほどの家臣を従え、彼らを「私の貴族たち」と呼び、竪琴弾きの者も伴っていたと伝わる。ギヨームはイングランド侵攻への協力をコナンに求めたが、コナンは、1040年の父アランの死はノルマン人による毒殺だったとしてこれを拒んだという。また、ギヨームの使命は教皇の旗印のもとにあるとして、周辺諸国に自国への攻撃を警戒させる文書が送られたとされるが、コナンは、ノルマンディーに必ず攻め込むとギヨームに速やかに答えたと伝えられる。
1066年、コナンは弱っていたアンジューの隙を突いて国境を固めようとしたとみられる。ブルターニュ辺境の町プアンセとスグレを落とし、さらにシャトー・ゴンティエに進んで同市を包囲したが、そこで毒殺された。ギヨームにそそのかされた裏切り者の仕業だと広く疑われた。毒を塗った手袋をはめ、その手袋で口をぬぐって毒を飲み込んだためとする説もある。遺体はレンヌのサン・メラーヌ修道院の聖堂に葬られ、墓は1672年の修復の際に塔の下から見つかったとされる。
コナンは正式な妻を持たず、跡継ぎを残さなかった。1075年にベルト・ド・ブロワの寄進状の証人に名が見える「コナン伯の庶子アラン」が、その子である可能性が指摘されている。後継については、妹アヴォワーズがブルターニュ公となったとも、その夫である義弟オエルが継ぎ、公位がレンヌ家からコルヌアイユ家に移ったともいわれる。アヴォワーズとコルヌアイユ伯オエルの結婚は、公国の東西を結んで安定させる政治的な動きだったのかもしれない。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード懺悔王 (1066年没)
- ゴットシャルク (1066年没)
- トスティ・ゴドウィンソン (1066年没)
- 蘇洵 (1066年没)
- ステンキル (スウェーデン王) (1066年没)
同じ地域に関係する人物
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