HISTORICAL PERSON · 221年没

張飛

劉備の挙兵から従った蜀漢の将軍で、関羽と並ぶ勇猛で知られる。長坂では殿軍を務めて橋を落とし曹操軍を寄せつけず、益州攻めでは厳顔を生け捕りにして賓客として遇した。演義では五虎大将軍の一人。

生涯
221年没
死亡地
中華人民共和国(四川省 / 閬中市)
出生地
中華人民共和国(涿州市)
出典
世界地図
中華人民共和国(四川省)

伝記

張飛(字は益徳)は、後漢末期から三国時代の蜀漢の将軍である。幽州涿郡涿県の人で、没年は章武元年(221年)6月。生年は伝わらない。出自についての記録は「涿郡の人」のみで、家族や背景は不明である。劉備が黄巾の乱に際して郷里で義勇兵を集めたとき、他所から来た関羽とともに若い張飛もその徒党に加わった。関羽が数歳年長だったため、張飛は関羽を兄のように敬い、劉備からは二人とも兄弟のような親愛を受けたという。初平2年(191年)に劉備が平原相となると、関羽とともに別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いた。建安元年(196年)、劉備が袁術と戦う間、張飛は本拠地の下邳の留守を任されたが、元陶謙の将の曹豹と対立した。その隙に呂布が裏切って下邳を攻め、曹豹も呼応したため張飛は敗れ、劉備の妻子は捕らえられた。その後は曹操の呂布討伐に従って中郎将に任じられ、劉備が曹操に背いて袁紹や劉表のもとへ身を寄せたときも付き従った。

建安13年(208年)、曹操が荊州に進軍すると、劉備は妻子を棄てて数十騎で逃れた。張飛は20騎ほどで殿軍を引き受け、川に拠って橋を落とし、矛を横たえて「張益徳、これにあり。命を惜しまぬ者はかかって来い」と言い放った。誰も近づこうとせず、劉備は落ち延びることができた。赤壁の戦いののち、劉備が荊州南部を攻略すると、宜都太守・征虜将軍となり、新亭侯に封じられた。

建安17年(212年)の益州攻略では、諸葛亮・趙雲らとともに援軍として攻め込み、各地を平定した。江州では巴郡太守の厳顔を生け捕りにしたが、厳顔が「我が州には断頭将軍はいても降伏する将軍はいない」と言い放ち、斬れと迫ると、その気骨に感じて釈放し、賓客として遇した。劉璋軍との戦いにはすべて勝ち、成都で劉備と合流して、諸葛亮・法正・関羽と同等の褒賞を受け、巴西太守に任じられた。建安20年(215年)には、漢中から巴へ進んだ張郃と対峙した。50日あまりにらみ合ったのち、精鋭1万ほどで山道の隘路を利用して迎え撃ち、張郃を数十人の部下とともに敗走させた。

建安24年(219年)に劉備が漢中を攻略すると、漢中の守備には魏延が抜擢された。周囲も張飛自身も自分が任されると思っていたという。盧弼は、張飛が暴虐な性格で兵卒に嫌われていたためだとする。同年、劉備が漢中王となると、張飛は仮節・右将軍に任じられた。劉備が皇帝に即位した章武元年(221年)には車騎将軍兼司隷校尉・西郷侯となった。同年、劉備の呉討伐に際し、張飛は1万の兵を率いて閬中を出発し、江州で合流する手はずだった。しかしその準備中の6月、部下の范彊・張達に暗殺され、二人は首級を携えて呉へ逃げた。直接の動機は史書に記されないが、陳寿は、張飛が身分の低い者や部下に暴虐であったことや、劉備が死刑や鞭打ちを頻繁に行うことを戒めていたことを並べて記しており、背景が示唆される。張飛の都督から上奏文が届いたと聞いた劉備は、内容を聞く前に「ああ、飛が死んだ」と悟ったという。長男の張苞は早世していたため、次男の張紹が跡を継いだ。景耀3年(260年)、劉禅から桓侯と諡された。

『三国志演義』では身の丈八尺、酒好きの乱暴者、肉屋を営んだなどと描かれるが、これらは史書にない創作である。部下の功曹の馬斉の能力を認めて劉備に推薦し、馬斉は尚書郎に任じられたという。後世には関羽とともに武勇を称えられ、神格化されるに至り、民間でも愛される人物となった。

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