伝記
司馬相如は、中国の前漢の頃の文章家である。字は長卿、もとの名は犬子といった。蜀郡成都県の人で、生年は紀元前179年とされるが、紀元前172年、171年、169年とする説もある。没年は紀元前117年である。賦の名人として知られ、のちの時代には賦を作った者の中で最も優れた人物とみなされるようになった。
成都の裕福な家に生まれ、若い頃は書物を読むことと剣術を好んだ。戦国時代の趙の将軍、藺相如に憧れて、名を相如に改めたという。二十代の頃に故郷を出て都の長安に上ったともいわれ、その官は低い地位だったとされる。入貲という、財産を納めて郎になる制度によって景帝に仕え、のちに皇帝の遊行に付き従う武騎常侍となったが、景帝が文学の飾りを好まなかったためか、この仕事に愛着を持てなかった。そこへ景帝の同母弟である梁の孝王劉武が、鄒陽、枚乗、荘忌ら一流の文人を連れて訪れた。相如は彼らと出会い、病を理由に官を辞して梁へ向かい、孝王の厚遇を受けて文人たちと暮らした。代表作の「子虚の賦」は、この梁での日々に書き始められたとされる。
紀元前144年頃に孝王が死ぬと、相如は故郷に帰ったが、実家はすでに貧しく、暮らしにも事欠くありさまだった。友人で臨邛県の県令を務める王吉が、臨邛に来るよう勧めた。王吉は相如を、土地きっての大富豪である卓王孫の宴席に連れて行き、相如は求められて琴を弾いて人々を魅了した。卓王孫の娘の卓文君は、夫に先立たれて実家に戻っていたが、その琴の音に心を奪われた。相如から恋文が届くと、文君は家をこっそり抜け出して駆け落ちした。激怒した卓王孫は娘に財産を分けないと言ったため、文君は持ち物を売って臨邛の町に酒場を開き、自ら店に立った。相如も犢鼻褌の姿で召使いのように働いた。卓王孫は娘の姿を恥じ、親戚の勧めもあって、召使い100人、100万銭、最初の結婚の際の嫁入り道具を与え、二人の結婚を認めた。二人は成都に移り、土地を買って地主となった。
そのころ中央では景帝が死に、文学を好む武帝が即位していた。武帝は「子虚の賦」を読んで深く感動し、作者と同じ時代に生きられないのは残念だと言った。古人の作と思っていたのである。同郷の側近である楊得意が、作者は今も生きている司馬相如だと教えたため、武帝は相如を召した。ただし、この話には矛盾が多く、史実とは考えにくいと指摘する研究者もいる。いずれにせよ相如は、「子虚の賦」は諸侯の事を書いたもので天子に献上するにはふさわしくないと述べ、天子にふさわしい内容に改作して「天子游獵賦」として奉った。武帝は大いに喜び、相如を郎に復職させた。別の伝えでは、相如は武帝の前で、天子の狩猟を描く大作を作りたいと願い出て、筆と木簡を支給されて書き上げたともいわれ、感心した武帝はただちに宮廷の官に任じたとされる。この作品は『文選』では「子虚賦」と「上林賦」に分けられ、「子虚・上林賦」と呼ばれることが多い。
その後は宮廷の催しのために賦を作り、蜀にゆかりがあることから、武帝の使者として南西の辺境へ赴いたともされる。紀元前131年頃には、蜀の人々と圧政を行う長官との争いを調停するため蜀へ向かい、帰還後に昇進したと伝わる。作品には「長門賦」「喩巴蜀父老檄」「難蜀父老文」「上書諫獵」「哀秦二世賦」「大人賦」「封禪文」などがあり、「封禪文」は紀元前119年から紀元前117年頃の作とされる。