HISTORICAL PERSON · 264年没

姜維

魏の天水郡出身で、228年に諸葛亮の北伐で蜀に降った将。諸葛亮にその才を高く評価され、費禕の死後は軍権を握って幾度も北伐を敢行したが、段谷で鄧艾に大敗するなど国力を大いに疲弊させた。

生涯
264年没
死亡地
中華人民共和国(四川省 / 成都市)
出生地
中華人民共和国(甘谷県)
出典
世界地図
中華人民共和国(四川省)

伝記

姜維は、中国三国時代に魏と蜀漢に仕えた人物で、字を伯約という。涼州天水郡冀県の出身で、建安7年(202年)に生まれ、景元5年1月18日(264年3月3日)に没した。姜氏は代々「天水の四姓」と呼ばれる豪族で、父の姜冏は郡の功曹だった。十代前半のとき、父が異民族の反乱鎮圧に従軍して戦死したため、母の手で育てられた。郡に出仕して上計掾となり、のち雍州刺史の従事に召された。父の功績が取り上げられて中郎の官を贈られ、天水郡の軍事にも参与した。

建興6年(228年)、蜀の諸葛亮が北伐で近づくと、天水太守の馬遵とともに偵察に赴いた。しかし各県が降伏したと聞いた馬遵は、姜維らが諸葛亮と内通しているのではと疑い、上邽へ逃げた。姜維らは追ったが城に入れず、冀県に戻っても受け入れられず、行き場を失って蜀に降った。諸葛亮は街亭の戦いに敗れると、西県の千余家と姜維らを連れて成都に帰った。このため姜維は魏領に残した母と生き別れになった。諸葛亮はその才を高く評価し、「涼州で最高の人物だろう」と述べ、倉曹掾・奉義将軍とし、当陽亭侯に封じた。諸葛亮の死後は成都に戻り、右監軍・輔漢将軍となり、平襄侯に進封された。

蔣琬が漢中に駐屯すると姜維も従い、司馬として一軍を率いて西方へ侵入を重ねた。243年に蔣琬が北伐を断念すると、鎮西大将軍・涼州刺史として北方の備えに残され、247年には衛将軍・録尚書事となって軍事の中枢を担った。この年、異民族の反乱を鎮め、隴西で郭淮・夏侯覇らと戦って勝った。姜維は大規模な北伐で諸葛亮の遺志を遂げたいと願ったが、大将軍費禕は賛同せず、1万以上の兵を与えなかった。費禕は、丞相でさえ中原を定められなかったのだから今は内政に力を注ぐべきだと語ったという。

253年に費禕が魏の降将郭循に刺殺されると、姜維は軍権を握り、数万の兵で北伐を敢行したが戦果はなかった。255年には夏侯覇らとともに魏の王経を洮水の西で大破したが、翌256年、大将軍に昇進した同年に、胡済が約束を破って後詰に現れず、段谷で鄧艾に大敗して国力を大きく疲弊させた。姜維は諸葛亮の先例にならい、自らを後将軍・行大将軍事に降格して責任を取った。国内では北伐への批判が高まり、譙周は『仇国論』で北伐の無謀さを批判し、推進派の陳祗も没して、姜維は孤立した。そこで漢中の守りを改め、陣営を漢城・楽城の二城に集中させ、敵が疲れて退くところを追撃する策を建議した。劉禅が黄皓を重用して国政が乱れるなか、262年に北伐を行ったが鄧艾に撃退された。同年、黄皓が閻宇と結んで軍権の没収を図り、諸葛瞻や董厥も同調したため、姜維は成都に戻れなくなった。

263年、姜維は魏の侵攻が近いとして張翼・廖化の増援を上表したが、黄皓が神託を信じて取り上げさせなかった。魏の鄧艾と鍾会が攻め込むと、姜維は剣閣で鍾会に抵抗した。その間に鄧艾が陰平から迂回して綿竹で諸葛瞻を討ち、劉禅は降伏した。降伏の報を受けた姜維は残念に思いつつ鍾会に降り、将士は怒って剣で石を斬ったという。鍾会に降伏が遅れた理由を問われ、「これでも早すぎたのだ」と答えた。のち鍾会の反逆の意図を見抜いて反乱を勧め、鍾会を独立させて魏の将兵を殺し、劉禅を迎えて蜀を復興する計画だったとされる。しかし幽閉された将軍たちが暴動を起こして失敗し、姜維は鍾会や妻子とともに殺された。享年63。遺体から取り出された胆は一升枡ほどもあったと伝わる。西魏の宇文泰は開明王と追贈した。天水市甘谷県には墓所と「姜公祠」があり、剣閣県にも『漢大将軍姜維之墓』がある。

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