HISTORICAL PERSON · 1063年没

ベーラ1世 (ハンガリー王)

ハンガリー王(在位1060〜63年)。兄アンドラーシュ1世が幼い息子に王位を与えたことに怒って反乱を起こし、兄を追放して即位した。新貨幣の流通など王権強化策を進めたが、玉座が壊れた際の重傷で死去した。

生涯
1063年没
死亡地
ハンガリー(コマーロム・エステルゴム県 / ドモシュ)
出生地
スロバキア共和国(Devin)
出典
世界地図
ハンガリー(コマーロム・エステルゴム県)

伝記

ベーラ1世は、1060年から1063年まで在位したハンガリー王である。アールパード朝の傍系の出で、「闘士」や「野牛」とも呼ばれた。洗礼名はアダルベルト(アーダルベルト)といい、ベーラはそのハンガリー語に当たる。生まれは1015年から1020年の間とされ、1016年生まれとする記述もある。兄のアンドラーシュ1世とは同じ母を持つ。名の由来には、テュルク語で「貴人」を意味する語に由来するという説や、スラヴ語の「白」あるいは聖書の名ベラに関わるとする見方がある。

父はヴァズル(バシル)とされ、ハンガリー年代記の多くは父をはげのラースローとするが、近代の歴史家はヴァズルと側室の子だったと一致して考える。ベーラは次男とも三男ともされ、論者によって見方が分かれる。1031年、初代国王イシュトヴァーン1世の唯一の存命の子エメリックが死ぬと、ヴァズルが王位継承の有力候補になった。しかし国王は、ヴァズルが異教に傾いていると疑い、姉妹の子ペーテル・オルセオロを後継に選んだ。甥の継承を確実にするため、王はヴァズルの目をつぶすよう命じ、ベーラと二人の兄弟レヴェンテ、アンドラーシュは国外へ逃れた。

兄弟はまずボヘミアに住んだが暮らしは貧しかったとされ、続いてポーランドへ移り、ミェシュコ2世に温かく迎えられた。ハンガリーの年代記によれば、ベーラはポーランド軍のポモージェ人征討に加わり、その公と一騎打ちで戦って破った。ポーランド王は彼の勇気と力を賞賛し、ポモージェ人の貢納をすべて与え、娘リグザ(アデライデとも)を嫁がせて土地も授けたとされる。結婚は1039年から1043年ごろで、8人の子をもうけた。ミェシュコ2世は1034年に死去し、ポーランドは混乱したが、ベーラはこの時期ポーランドにいて、不在の義兄カジミェシュに代わって国を治めたかもしれないという説がある。一方、ポーランドの歴史家には、兄弟の到着は1039年以後だとする説もある。レヴェンテとアンドラーシュは1038年ごろにポーランドを去った。年代記によれば、ベーラの兄弟としてしか見られない宮廷での暮らしを望まなかったためで、二人はキエフに住んだ。

1046年、異教徒が中心となった反乱でペーテル王が倒され、アンドラーシュが王位に就いた。レヴェンテは同年に没し、子のなかったアンドラーシュはベーラを呼び戻した。1048年に帰国したベーラは、王国の3分の1にあたる公領を与えられた。公領は東部と北部の国境沿いの広大な地域で、ニトラやビハルを含み、貨幣の鋳造など多くの王権を認められた。「ベーラ公」と刻んだ貨幣も作られた。しかしアンドラーシュが幼い息子シャラモンに王位を与えると、兄弟の関係は悪化した。ベーラは1057年か1058年にこの甥の権利を公に認めさせられたが、ポーランドの親族の助けを得て反乱を起こし、兄を追放して1060年に即位した。

即位後は新貨幣の流通、日曜市の土曜への移動など、王権強化の施策を行った。異教復活を目指す最後の蜂起も鎮圧した。やがてシャラモンを王に復位させようとするオーストリアが侵攻してくる中、ドメスの邸宅で座っていた玉座が壊れて落下し、重傷を負った。半死半生のまま西の国境付近へ運ばれ、1063年9月11日に死去した。子にはゲーザ1世(1044年生)、ラースロー1世(1048年生)、ランベルト(1050年生)、イストリア辺境伯妃となったソフィア、オロモウツ公妃となったエウフェーミアらがいる。

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