伝記
ウァレンティニアヌス1世は、321年に生まれ、375年11月17日に没したローマ皇帝で、在位は364年から375年である。ウァレンティニアヌス朝の創始者であり、大帝とも呼ばれる。南パンノニアのキバラエに、イリュリア系ローマ人の家庭の子として生まれた。父は、コンスタンティヌス1世とコンスタンティウス2世の下で仕えた有力な将軍グラティアヌス・フナリウスで、7歳年下の弟に、のち共同皇帝となるウァレンスがいる。兄弟の母は、コンスタンティウス1世の孫娘といわれ、女系ながらコンスタンティヌス朝とは血縁があった。父は北アフリカで公金横領の疑いを受けて職を去り、のちブリタンニアの司令官となったが、簒奪者マグネンティウスへの加担を疑われ、領地を没収された。父にならって軍に入り、357年に騎兵隊の指揮官となったが、ユリアヌスの成功を妬む者の策謀で、同僚とともに作戦を妨害したと訴えられて解任された。妻マリナ・セウェラとシルミウムの領地に引きこもり、359年にそこで、のちの皇帝グラティアヌスが生まれた。
ユリアヌスの死後、ヨウィアヌス帝に呼び戻され、ガリアで難しい任務を務めて死を免れ、近衛部隊の指揮官に昇進してアンキュラへ送られた。364年、ヨウィアヌスがニカイアへの帰途に、火鉢のガスによる事故死を遂げると、軍が元老院にはかることなく、後継を選ぶことになった。ヨウィアヌスには幼い息子がいたが、北方の蛮族と、条約を結んだものの情勢の不安なペルシアという不安を抱えていたため、軍は実務経験のある優秀な軍人を望み、白羽の矢が立ったのが、当時43歳のウァレンティニアヌスだった。彼はヨウィアヌスの死の約10日後の2月26日に即位し、3月28日に弟ウァレンスを共同皇帝とした。兄弟はナイススで話し合い、兄は西方でイタリア、イリュリクム、ヒスパニア、ガリア、ブリタンニア、アフリカを、弟は東方でバルカン半島の東半分、ギリシア、エジプト、シリア、小アジア、ペルシアを取った。
治世は外敵との戦いに追われた。トリーアを主な居所とし、パリやランスでアレマン人との戦いを指揮した。東方でコンスタンティヌス朝の縁者プロコピウスが反乱を起こすと、ウァレンスを支援し、366年に反乱は鎮圧された。北方に送った将軍二人はアレマン人に敗れて戦死したが、騎兵長官ヨウィヌスが押し返し、この功績で367年に執政官となった。367年にはブリタンニアで、ピクト人、スコット人、アッタコッティ人らが共謀して反乱を起こし、ガリア北部ではサクソン人とフランク人が海岸の都市を襲い、この事件は後世「偉大なる共謀」と呼ばれる。369年に大テオドシウスがこれを鎮圧し、北方に皇帝にちなんだウァレンティア属州が置かれた。368年の春にはソリキニウムの戦いでアレマン人に勝利した。病に臥せった際には、まだ8歳の長男グラティアヌスを西方の共同皇帝とした。372年にアフリカで起きたフィルムスの反乱も、大テオドシウスが鎮圧した。
内政では、貧しい人々に心を配り、土地の所有や税の仕組みを改め、初歩的な公衆衛生の制度を作り、大都市に「民衆の保護官」を置いて弱者への正義を守らせたという。宗教には寛容で、例外はイタリアのマニ教徒と、アフリカのドナトゥス派だった。元老院貴族とは折り合いが悪く、自分と同じパンノニア出身の軍人を多く側近とした。374年、クァディ族とサルマティア人がドナウを越えて侵入し、翌375年の春、彼はブリゲティオに司令部を移した。クァディ族と会見した際、怒りのあまり叫んだところで脳卒中を起こし、これが原因で11月17日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- 近肖古王 (375年没)
- フィルムス (4世紀の人物) (375年没)
- アヴィエヌス (375年)
- Pambo (375年)
- Emmelia of Caesarea (375年)
同じ地域に関係する人物
- シラージ・エルジェーベト (1483年没)
- ヴィテーズ・ヤーノシュ (1472年没)
- ブザーンスキー・イェネー (2015年没)
- バラッシ・バーリント (1594年没)
- Tivadar Monostori (2014年没)