HISTORICAL PERSON · 1063年没

トゥグリル・ベグ

セルジューク朝の創始者で初代スルターン(在位1038〜1063年)。祖父セルジュークが率いたテュルク系集団を、兄チャグリー・ベクとともに導いて勢力を広げた。

生涯
1063年没
死亡地
イラン共和国(テヘラン州 / タジュリシュ)
出生地
—
出典
世界地図
イラン共和国(テヘラン州)

伝記

トゥグリル・ベクは、セルジューク朝の創始者で、初代スルターンである。生年は990年ごろとされ、1063年9月4日に没した。テュルク系遊牧民集団の族長だったセルジュークの孫で、その息子ミーカーイールの三男であったらしい。兄にチャグリー・ベクがいる。名のトゥグリルは猛禽の一種を、ベクは君主を意味し、「鷹の君主」を思わせる名である。父の死後については伝えが分かれ、父が異教徒のテュルク集団への遠征で戦死したのちにチャグリーと部衆を分け合って率いたともいわれ、兄弟が祖父セルジュークに育てられたともいわれる。一族はやがてイスラームを受け入れ、少なくとも形の上ではムスリムになったとみられる。その後の数十年、マー・ワラー・アンナフルやホラズムの争う勢力に、牧草地と引き換えの傭兵として雇われた。

1025年、サーマーン朝の残存勢力に与してカラハン朝やガズナ朝と戦っていた伯父のアルスラーン・イスラーイールが、ガズナ朝のスルターン・マフムードに捕らえられてガズナへ連行された。部衆もマー・ワラー・アンナフルから追放された。1030年にマフムードが没して後継者争いが起こると、トゥグリルは兄チャグリーとともに、伯父の救出や、あとを継いだマスウード1世との交渉を何度か行った。一方で、残る一族の集団を掌握するため、伯父の拘禁の報復を口実にガズナ朝へたびたび出征した。

1037年ごろ、一族の有力者たちによってスルターンに推戴され、彼の名で説教が唱えられたという。1038年にはニーシャープールの戦いでガズナ朝に大勝し、同地を支配してセルジューク朝を創始した。1040年にはダンダーナカーンの戦いでガズナ朝軍を破り、ホラーサーンやアフガニスタンまで領土を広げた。その後は都をニーシャープールに置き、弟の助力も得て自らの国家を築いた。やがて、兄弟イブラーヒーム・イナールの助けを借りてイランの中西部を制し、ブワイフ朝の支配を終わらせた。都はレイに定めたが、イスファハーン占領後は、そこへ移した。さらにアゼルバイジャンも支配下に置き、東ローマ帝国にも遠征した。

1055年、アッバース朝のカリフ、カーイムの招きに応じてバグダードに入城した。ブワイフ朝を倒し、カリフの後見人となって、イスラーム世界の権威を手にした。カリフからは「スルターン、宗教の柱、探究者の父」などの称号を与えられ、この時に「スルターン」の称号を授けられたとするのが通説である。ただ、貨幣の研究では、スルターンの称号はすでに1046年から1047年にニーシャープールで発行された貨幣に現れており、それは常に「偉大な」という語を伴った。宗教の名を含む称号を付ける形式は、これ以降に定着していった。バグダード確保の後、チャグリーの娘をカリフに嫁がせて結びつきを強め、のちにカリフの娘とも、本人の反対を押し切って結婚した。そのイブラーヒームが起こした反乱を鎮めて処刑し、ファーティマ朝に支えられたバサースィーリーも破った。

敬虔なハナフィー派の信者で、多くのモスクやマドラサを建てたとされ、宰相クンドゥリーの助けで他の宗派の活動を制限した。公正で無用な流血を避けた統治者だったとする記述がある一方、彼や軍隊の圧政を伝える記述もある。1063年、73歳で亡くなった。跡を甥のアルプ・アルスラーンが継いだ。彼が築いた、テュルクの政治の伝統と地域の慣習、カリフの宗教的権威を組み合わせた統治の型は、スルターン制の基礎となった。

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