HISTORICAL PERSON · 1063年没

クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイール

セルジューク朝の王族。父の獄死後、従兄弟トゥグリル・ベクらに協力し西アジア進出を支えたが、後にアルプ・アルスラーンとの戦いに敗れ敗走中に死去した。

生涯
1063年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

クタルミシュ・イブン・アルスラーン・イスラーイールは、11世紀のセルジューク朝の王族である。セルジューク朝の始祖セルジュークの孫で、父はアルスラーン・イスラーイール(イスラーイール)。のちにルーム・セルジューク朝を興すスライマーンの父にあたる。名の「クタルミシュ」は「幸運(威光)を授かった者」を意味するとされ、称号はシハーブ・アッダウラといった。

祖父セルジュークはオグズ族の有力者で、10世紀後半に首領(ヤブグ)と折り合わず、一族を率いてシル川下流のジャンド付近へ移り、イスラーム教を受け入れたとされる。その子の一人であるイスラーイールは、従兄弟のチャグリー・ベクやトゥグリル・ベクとともにブハラ近郊の草原に住み、カラハン朝のアリー・テギンを支えた。1025年にガズナ朝のマフムードがアリー・テギンを破ると、マフムードはイスラーイールの配下のセルジューク族をホラーサーンに移し、イスラーイール自身を人質としてインド国境のカーリンジャル要塞に送った。彼はそこで約7年後の1032年ごろに世を去った。クタルミシュも父とともに幽閉されたが、のちに脱出してブハラへ逃れ、オグズ諸部族を結集して父を救おうとしたものの失敗したという。

その後のクタルミシュは、従兄弟トゥグリル・ベクの軍の指揮官の一人として記録に現れる。トゥグリルの軍の各部隊は親族である「マリク」たちが率い、クタルミシュは弟ラスール・テギンとともにカスピ海沿岸地方で働いた。1042年のグルガーンとタバリスターンへの遠征では、オグズ・トルクメンの先鋒隊を率いた一人で、この遠征でこの二地方は服属し、1043年にトゥグリルはレイに入って都とした。その後クタルミシュはビザンツ領アナトリアへ単独で侵入して敗れ、シリアへ退いたところでもアッバース朝の武将アルスラーン・アル=バサースィーリーに破られた。

1045年の秋、ビザンツ皇帝コンスタンティノス9世は、トルクメンの襲撃が増えたことを案じ、グルジアの公子リパリトの軍をザカフカスのドヴィンへ向かわせた。トゥグリルはこれに対してクタルミシュを送り、両軍はギャンジャ近くで会戦した。クタルミシュはおもに父のオグズ人から成る軍を率い、ビザンツ、アルメニア、グルジアの混成軍を完敗させた。これはセルジューク軍とビザンツ軍の史上最初の戦いとされ、アルメニアの将軍ヴァフラムを含む多くの兵が戦死した。クタルミシュはアラス川沿いをやや進んでからトゥグリルのもとに戻り、ローマ人は女のように臆病で、アナトリアは容易に征服できると語ったという。1046年にはトゥグリルの命でアルメニアとアゼルバイジャンの山岳地方の征服に向かい、ギャンジャの長い包囲を行ったが落とせなかった。歴史家イブン・アル=アスィールによれば、彼は星の学問に通じていた。

1063年にトゥグリル・ベクが死ぬと、クタルミシュは父がかつて占めていたセルジューク家の代表の座を得ようと、ホラーサーンを拠点とするアルプ・アルスラーンに戦いを挑んだ。レイとダームガーンの間のデヘ・ナマクで敗れ、逃走の途中で死んだ。時期は1063年11月とも1064年1月ともされ、戦いの最中に死んだともいわれて、死因ははっきりしない。アルプ・アルスラーンは捕虜の処刑を望んだが、宰相ニザーム・アル=ムルクの説得で思いとどまったと伝えられる。息子スライマーンは助命されたものの、王族としての扱いは受けられなくなった。息子は4人とも5人ともされ、スライマーンはのちの1084年にマリク・シャー1世にルームのスルターンと認められたとされる。

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