伝記
アブー・カーリージャール・マルズバーンは、ブワイフ朝のアミールで、ファールス(1024年〜1048年)、ケルマーン(1028年〜1048年)、イラク(1044年〜1048年)を治めた人物である。1048年10月に38歳で没した。スルターン・アッダウラの長男で、称号は「イマード・アッディーン(宗教の柱)」といった。
1024年に父スルターン・アッダウラが死ぬと、ブワイフ朝は継承の危機に陥った。マルズバーンはファールスなどを継いだが、このときまだ16歳であった。最初の数年間は宦官の守り役サンダルの監督下に置かれた。ケルマーンを治める叔父のカワーム・アッダウラが彼の地位に異を唱えたが、貢納金の支払いを条件に和平が結ばれたという。イラクでは1025年5月に別の叔父ムシャッリフ・アッダウラが没し、跡継ぎをめぐって争いが生じた。軍の指導者たちはマルズバーンを支持したものの、カワーム・アッダウラに入国を阻まれ、1027年に叔父ジャラール・アッダウラがバグダードに入ってアミールの中のアミールと認められた。
1028年にカワーム・アッダウラが死ぬと、マルズバーンはケルマーンを併合した。1030年、ジャラール・アッダウラは宰相アブー・アリー・ハサンに1300隻の艦隊を率いさせてバスラを奪おうとしたが、遠征は完敗に終わった。マルズバーンは宰相バフラーム・イブン・マーフィンナの軍にフーゼスターンを征服させ、アフワーズを首都とした。1033年にガズナ朝がケルマーンに侵入したが、課される負担を見た住民はブワイフ朝の支配のほうがよいと考えるようになり、翌年バフラームがガズナ朝勢力を追い出した。このとき、マルズバーンとジャラール・アッダウラが手を組んで撃退したともいわれる。
マルズバーンはイラクの支配も望み、1037年ごろにバグダードへ軍を進めた。街は落とせなかったが、ジャラール・アッダウラは彼を年長のアミールと認めたため、彼は貨幣に「シャーハーンシャー(王の中の王)」の称号を刻むようになった。しかしモスルのアミールとアサド族がジャラール・アッダウラを支持したため、二人は妥協せざるをえず、互いに独立した同じ称号の君主として並び立った。マルズバーンは息子をバスラの総督にするのにとどまった。1041年から1042年にはバフラームが死に、ズー・アッサアーダートが宰相を継いだ。
1044年にジャラール・アッダウラが没すると、マルズバーンはイラクを手に入れたが、支配は弱く、首都はバグダードに移さずアフワーズに置いたままだった。同じ年にはシーラーズの城壁を強化している。その後バグダードを訪れて年長のアミールの称号と「ムヒーイ・アッディーン」の称号を受け、メソポタミアの小君主たちも彼の権威を認めた。イスファハーンのカークウィー朝までが忠誠を表明したが、これがセルジューク朝の介入を招き、彼は交渉して婚姻による同盟を結ぶ道を選んだ。そのころ、ケルマーンの総督はセルジューク朝のカーヴルトに服属しようとしていた。マルズバーンは自らの権威を回復しようと軍を進めたが、総督の使者が贈り物と忠誠更新の約束を携えて現れただけだった。まもなく彼は没した。後を息子のマリク・アッラヒームが継いだとも、ファールスは弟のフーラード・ストゥーンが、イラクはマリク・アッラヒーム・フスラウ・フィールーズが継いだともいわれる。いずれにせよ、ブワイフ朝は死後まもなく継承争いに陥り、ケルマーンはセルジューク朝の勢力圏に入った。
同じ年に亡くなった人物
- 李元昊 (1048年没)
- ダマスス2世 (ローマ教皇) (1048年没)
- アダルベール (ロレーヌ公) (1048年没)
- ヴィポ・フォン・ブルグント (1048年没)
- ビールーニー (1048年没)
同じ地域に関係する人物
- シシュガンビス (紀元前323年没)
- マニ (預言者) (277年没)
- ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール (879年没)
- Abdallah Ibn-Ahmad Nasafi (1310年没)
- カラノス (バラモン僧) (紀元前323年没)