伝記
マニは、サーサーン朝ペルシア時代の預言者で、マニ教の開祖である。216年4月14日に生まれ、277年2月26日に没した。日本語の「マニ」はヨーロッパ経由で伝わった表記で、原音に近い読みはマーニーである。元のシリア語ではマーニーと呼ばれ、漢字では「摩尼」と書かれた。この名はシリア語圏ではありふれたもので、別にクルビキオスという名も伝わっており、パルティア人の血を引く彼の本名とも考えられている。
パルティア末期、メソポタミアのバビロニア地方、ユーフラテス川流域のマルディーヌー村で、貴族の父パティークと、王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれた。当時のメソポタミアには、ユダヤ教、キリスト教、マルキオン派、ミスラ教など、さまざまな思想が入り乱れていた。パティークは酒と肉と女を絶てという声を聴き、洗礼派のエルカサイ教団に入った。教団は女人禁制で、身重の妻は置き去りにされた。マニは初め母のもとで育ったが、四歳のとき父に迎えられ、青年期まで教団内で暮らした。教団でユダヤ教とキリスト教の教義を学び、シリア語やパフラヴィー語を身につけ、『アダムの黙示録』『エノク書』など、のちに外典とされた文書を読んだという。十二歳のとき、自らの使命を明らかにする神の啓示に初めて接したといわれる。
240年ごろ、二十四歳のときに聖天使パラクレートスから再び啓示を受け、開教したとされる。彼は自らを、セト、エノク、エノス、シェーム、ブッダ、ザラスシュトラ、イエスに続く最後の預言者と位置づけた。農業は植物の中の光の要素を壊すとして、教団で課された農作業を拒んで問題を起こし、追放されるかたちで教団を去った。親友のアブサクヤーらとクテシフォンへ向かったが、そこではゾロアスター教を国教とするサーサーン朝が支配者となっており、アルサケス家の血を引くことはマイナスでしかなかった。一行はイラン高原のガンザクへ向かい、そこで少女の病を癒した。その後、海路でインドに渡り、二年に及ぶ宣教でマニは仏教の知識を得たとされる。
インドから戻ったマニは、サーサーン朝の第2代皇帝シャープール1世に謁見した。史上初のパフラヴィー語文献『シャーブラフガーン』を自ら発明したマニ文字で書いて献上し、医者として宮廷に召し抱えられた。シャープールは彼を寵愛して遠征にも同行させたという。宮廷で職を得たマニは、教会制度の整備や聖典の作成に携わり、宣教は弟子たちに任せ、シリア、エジプト、パレスチナ、アルメニア、中央アジアなどへ教線を伸ばした。
だが、その教えにはゾロアスター教の神官団にとって不快な内容が多く、272年にシャープールが死去すると、立場は危うくなった。バハラーム1世の時代には、大マグのカルティールの勢力が拡大し、マニは権力闘争に敗れ、属国バート王の宮廷へ左遷された。そこでも宣教して王を改宗させたといい、それがクテシフォンの怒りを買った。サーサーン朝を脱出しようとして警察網に捕まり、最後にはバハラームの怒りにふれて逮捕された。獄中では弟子や女性たちに世話を受け、獄吏にも教えを説いた。老いて衰弱するなか、釈放の要求は許されなかった。最期は、磔刑に処せられたとも、生きたまま皮を剥がれたともされ、はっきりしない。近年現れたパルティア語の文書からは、獄中でも自由に信者と面会できた状況が知られ、比較的穏やかな状況下で獄死した可能性も推測されている。マニ教はのちに西は北アフリカ、東は中国にまで広がった。
同じ年に亡くなった人物
- アンティオキアのユリアヌス (277年(推定))
同じ地域に関係する人物
- アンティオコス3世 (セレウコス朝) (紀元前187年没)
- ヤアクーブ・イブン・アル=ライス・アル=サッファール (879年没)
- イナロス (紀元前500)
- シシュガンビス (紀元前323年没)
- アブー・カリジャル (1048年没)