HISTORICAL PERSON · 277年没

マニ (預言者)

サーサーン朝ペルシア時代の預言者で、マニ教の開祖。メソポタミアのバビロニア地方に貴族の父と王族出身の母のもとで生まれた。

生涯
277年没
死亡地
イラン共和国(フーゼスターン州 / ジュンディーシャープール)
出生地
イラク共和国(クテシフォン)
出典
世界地図
イラン共和国(フーゼスターン州)

伝記

マニは、サーサーン朝ペルシア時代の預言者で、マニ教の開祖である。216年4月14日に生まれ、277年2月26日に没した。日本語の「マニ」はヨーロッパ経由で伝わった表記で、原音に近い読みはマーニーである。元のシリア語ではマーニーと呼ばれ、漢字では「摩尼」と書かれた。この名はシリア語圏ではありふれたもので、別にクルビキオスという名も伝わっており、パルティア人の血を引く彼の本名とも考えられている。

パルティア末期、メソポタミアのバビロニア地方、ユーフラテス川流域のマルディーヌー村で、貴族の父パティークと、王族カムサラガーン家出身の母マルヤムとの間に生まれた。当時のメソポタミアには、ユダヤ教、キリスト教、マルキオン派、ミスラ教など、さまざまな思想が入り乱れていた。パティークは酒と肉と女を絶てという声を聴き、洗礼派のエルカサイ教団に入った。教団は女人禁制で、身重の妻は置き去りにされた。マニは初め母のもとで育ったが、四歳のとき父に迎えられ、青年期まで教団内で暮らした。教団でユダヤ教とキリスト教の教義を学び、シリア語やパフラヴィー語を身につけ、『アダムの黙示録』『エノク書』など、のちに外典とされた文書を読んだという。十二歳のとき、自らの使命を明らかにする神の啓示に初めて接したといわれる。

240年ごろ、二十四歳のときに聖天使パラクレートスから再び啓示を受け、開教したとされる。彼は自らを、セト、エノク、エノス、シェーム、ブッダ、ザラスシュトラ、イエスに続く最後の預言者と位置づけた。農業は植物の中の光の要素を壊すとして、教団で課された農作業を拒んで問題を起こし、追放されるかたちで教団を去った。親友のアブサクヤーらとクテシフォンへ向かったが、そこではゾロアスター教を国教とするサーサーン朝が支配者となっており、アルサケス家の血を引くことはマイナスでしかなかった。一行はイラン高原のガンザクへ向かい、そこで少女の病を癒した。その後、海路でインドに渡り、二年に及ぶ宣教でマニは仏教の知識を得たとされる。

インドから戻ったマニは、サーサーン朝の第2代皇帝シャープール1世に謁見した。史上初のパフラヴィー語文献『シャーブラフガーン』を自ら発明したマニ文字で書いて献上し、医者として宮廷に召し抱えられた。シャープールは彼を寵愛して遠征にも同行させたという。宮廷で職を得たマニは、教会制度の整備や聖典の作成に携わり、宣教は弟子たちに任せ、シリア、エジプト、パレスチナ、アルメニア、中央アジアなどへ教線を伸ばした。

だが、その教えにはゾロアスター教の神官団にとって不快な内容が多く、272年にシャープールが死去すると、立場は危うくなった。バハラーム1世の時代には、大マグのカルティールの勢力が拡大し、マニは権力闘争に敗れ、属国バート王の宮廷へ左遷された。そこでも宣教して王を改宗させたといい、それがクテシフォンの怒りを買った。サーサーン朝を脱出しようとして警察網に捕まり、最後にはバハラームの怒りにふれて逮捕された。獄中では弟子や女性たちに世話を受け、獄吏にも教えを説いた。老いて衰弱するなか、釈放の要求は許されなかった。最期は、磔刑に処せられたとも、生きたまま皮を剥がれたともされ、はっきりしない。近年現れたパルティア語の文書からは、獄中でも自由に信者と面会できた状況が知られ、比較的穏やかな状況下で獄死した可能性も推測されている。マニ教はのちに西は北アフリカ、東は中国にまで広がった。

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