HISTORICAL PERSON · 紀元前323年没

カラノス (バラモン僧)

インドのバラモン僧・哲学者。アレクサンドロス3世の説得に応じ従軍したが、ペルシスで衰弱すると自ら火葬台に上がり生きたまま焼身し、王は競技祭を催して弔った。

生涯
紀元前323年没
死亡地
イラン共和国(フーゼスターン州 / スーサ)
出生地
パキスタン共和国(タキシラ)
出典
世界地図
イラン共和国(フーゼスターン州)

伝記

カラノスは、紀元前4世紀のインドのバラモン僧であり、哲学者である。タクシラで暮らし、アレクサンドロス大王に同行してペルシスへ赴き、のちに大王の目の前で自ら火に入って命を絶った人物として知られる。生年は紀元前396年とも398年ともいわれ、没年は紀元前323年とされる。

本名はスピネスだったが、出会った人にギリシア語の「カイレ」(御機嫌よう)ではなく、インドの言葉で「カレ」と挨拶したため、ギリシア人からカラノスと呼ばれたという。タクシラで禁欲的な宗教生活を送る賢者だったとされ、その宗派については、バラモンとする説、仏教徒とする説があり、ジャイナ教徒とする見方は現在の研究では退けられている。大王の提督ネアルコスは、カラノスがバラモンではないと明言したという。

大王はタクシラに着くと、インドの賢者のうち誰かを軍に同行させたいと望んだ。他の者は断ったが、カラノスだけが説得に応じた。プルタルコスによれば、最初に大王が招いたとき、カラノスは衣を脱いで裸で話を聞くよう無遠慮に命じ、そうしなければ一言も語らないと言ったという。大王が贈った豪華な品々も、人の欲望はそのようなものでは満たされないとして断った。大王が力ずくで連れて行くことまで口にしたときには、「望まぬことを強いられて、ギリシア人に見せ物にされるなら、私はあなたの何の役に立とうか」と答えたと伝わる。大王の使者オネシクリトスは賢者たちと議論し、賢者たちはギリシアの哲学を概ね認めながらも、ギリシア人が自然よりも慣習を重んじ、衣服を手放そうとしないことを批判した。メガステネスは、カラノスがとくに自制心を欠くとされ、仲間の哲学者たちも、ともに暮らす幸福を捨てて神ならぬ主人に仕えたと彼をそしった、と記している。賢者たちは、たとえ大王に殺されても、老いに苦しむ肉体から解き放たれて、より良く清らかな生へ移るだけだと考えていたという。また、賢者たちの長であるダンダミスのことを大王に伝えたのもカラノスで、大王はのちにその人を森に訪ねた。大王に各地を長く放浪するのではなく、支配の中心を押さえるべきだという統治のあり方を示したともいわれる。

ペルシスに入ったころ、カラノスは風土と険しい旅で衰弱した。病人として養生するよりも、病にかからないうちに自ら命を絶つ道を選び、大王に、不自由な身で生きるより死ぬほうがよいと告げた。大王は思いとどまらせようとしたが、カラノスは譲らず、火葬壇の建設はプトレマイオスに任された。場所はスーサとも伝えられる。カラノスは王から贈られた高価な品を人々に分け与え、花の冠だけを身につけて賛歌を歌った。愛馬は弟子のギリシア人リュシマコスに与え、形見を弟子たちに分けた後、生きたまま火に身を投じた。炎のなかでも身じろぎしなかったので、見ていた人々は驚いたという。73歳だったとされる。大王はこれを讃え、音楽や馬術、体育の競技祭と酒飲みの競技を催した。プルタルコスがカレスを引いて伝えるところでは、酒の競技では、マケドニアのプロマコスが優勝して黄金の冠を得たが、三日後に死に、ほかにも多くの参加者が死んだという。

別れに際して、カラノスは大王に「バビロンで会おう」と告げたと伝わり、大王がその翌年にバビロンで没したことから、死の予言とされることもある。ただし当時の大王にバビロンへ行く予定はなかった。カラノスが大王に宛てた手紙はフィロンによって残された。のちの文献にはカラノスをインドのピュタゴラス派とするものもある。

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